昭和軽薄体について

そんな事書いても仕方ないかも知れないけれど。
椎名誠さんの本は面白いし、エッセーに書かれている事と純文学よりの作品に書かれているストーリーのバランスから、何となく気持ちのいいものを感じてよく読んでいた。ただ、一方で当時から昭和軽薄体みたいな、過度に口語っぽい書き方が混ざり混む文章にある種の欺瞞を感じていて、何がイヤさの原因なんだろう、と感じていた(椎名さんの
文章や作品が、ではない。リアルタイムで80年代の事は知らないけれど、感性を売り物にする商売のうち、「何でこんなもので稼げてるんだ」と疑問を感じているものが
多かった)。
96年頃に立て続けに、ロラン バルトだのドゥルーズだのを読んでいる時、スカスカの文体がある意味自由間接話法みたいなものの代わりで、マイノリティの解放みたいな動機が抜け落ちて単なる消費社会称揚になっていく過程があるのだろうな、と感じた。消費社会称揚は景気がよければ、それはそれで問題ないと思うのだけれども、今のように誰にでも目に見えて分かる不況の時に、いまだに80年代みたいな事を書いて立場の底を上げる、という戦略が、そもそも自分の内面と全く関係ないと感じている人は多いような気がする。でも困った事に、ペラペラで内実を含まない文章ほど他人の内面に寄生しないと切り回せない訳で、それを鬱陶しいと思った時、更に困るのは瞬時に自分の生活から切り離す事が難しいところなのだ。
あるコピーがついてるからといって、その商品を有り難がって購入する、という事はまるでないのだけれど、コピーが謙虚に自分のどうでもよさを認めていれば、愚にもつかなさに苛立つ事もないと思う。でも愚にもつかないのが脅威になるのは、オマケ以下の表現形態でお金を集めるために、何やっているのか分からない時だ。

ここまで書いて、もういいや基本的にどうでもよい事に関する言及は、と思うと同時に、ここ二三日の思考過程、絶対読んじゃダメぇ、、、という感じになる。