枠と時間

珊瑚の枝が人間の頬みたいに赤らむ、という夢に相応しい時間の枠を、寝床が用意する。頭を枕の上に横たえると、遠くで汽笛の音が聴こえる。船は霧を分けて珊瑚の欠片を抱きながらやってきたのに、珊瑚と船と比べて、船があどけない時もある。

サファリルックのような、大きなポケットがついていて白蝶貝のボタンがとめつけてある服を着た女の子が、1人で甲板に立って空を眺めている。背筋の両脇に何となく現実に馴染まない、かといって思い入れも含まない、硬質の受容器官がありそうで目をこらす。ベルトだけが鮮やかなピンクのペイズリー柄で、それは薄くて風に溶けるようで、なんとなく涙の気配さえ拭き取る。
だるい日曜日に、私はよく石を蹴っていた。もう石がなくなるまで蹴り続ければ、何かの解決を見つけ出した人のふりも出来たろうし、そこでやめれば大人げない気もせずに済んだ。が、石はあとからあとから湧いてきて、それというのも、昔から人の驕り高ぶった分節に、石は無頓着なのだ。私は蹴った石のひとつをまた求めるまで道すがら石を蹴り続け、初めに蹴ったそれが見つかると口に入れた。そんな風にして時間を増やし、やり過ごすことがあった。


帰り道に、人のこと実名まで出してめちゃくちゃ書いたついでに、もし自分を洗脳した挙げ句依りしろだから俺の哲学に命を捧げろみたいな脅しを掛けるのが、福山雅治だったら許すのか、真面目に考えてみる。(最近なんで人気があるのかようやっと解ってきたし電車の中に広告がベタベタ貼ってあったため)。
たぶん、二十歳過ぎる頃から、精神論的なものを引きあいに出さずに女性に(自然に)受け入れられる男の人か、精神的な部分を現実に受容されている男の人と話すのが楽(というか、無駄な存在じゃない)という感じになる女の人は多くて、そういう在りようを乗り越えて俺哲学みたいなものをこちらの精神的領域に持ち込まれると、別にそういうのだけに統制されないのが一人の人間というものでしょっ、ってなってしまうと思うのだ。福山雅治そういう無理な領海侵犯をしなさそうに見える。
あと別にこういう人にだったら自分の脳過程が把握されていてもそれほどイヤな生き物にならずに済むな、というのと、この人絶対に私を洗脳しちゃだめ別にあんたの欲動の一パーツじゃないのよ、という峻別もシビアに働くようになるのだと思う。