あらわれ

色々とお話をしながら、やっぱり白州正子さんは人気があるなぁ、と感じる。
小林秀雄の批評を読んでも、肝心なところであまり論理が機能していない気がして(ある種の強拍が過ぎるように思えて)、訳がわからなくなってしまうのだけれど、白州正子さんの文章の強さは、戦時中に疎開されていた相模原の住まいの雰囲気からしても、すごくよく分かるような気がして、かっこいいし豊かだなぁ、と思う。 慌ただしいのと、他に色んな事を考えていたのとで、あまり自然にその場の雰囲気を感じ取れていなかったかも知れないけれど、二年程前から三回、武相荘に遊びに行っている。女の友人とスプーンを買いにいった時みたいに、他の事を何も考えないで済むのならどれだけいいだろうな、と思いながら、でもその時と違う目線で、設えられたお部屋の中を見ていた。
それでもいいもののありかたに触れた時に、そう意固地な気持ちで居られなくて、すっといいなぁと感じた。民藝館でバーナード リーチを見たときもそんな風に思った。
あらわれてる雰囲気と本質って、結構重なっている部分も多いのだろうな、と思う。
その事を思うと、色んなアクシデント(大してものを考えてるとも思えない人に、個人情報を勝手に横流ししてしつこく人格障害じみた行動化に巻き込むとか)があったとはいえ、今の私は時々酷すぎなので、ほんと、ちゃんとしようと思うのだった。

「 「のうのう今の歌をば何と思ひ寄りて詠じ給ふぞ」
私は思わずぞっとした。こんな謡は今まで聞いたことがない。何と形容したらいいのだろうか。たとえば水晶の玉のように透明で、澄みきった音声、などといってみたところで説明したことにはなるまい。謡といえばうなるもの、と相場は大体決まっているが、友枝喜久夫の声は、軽くまろやかでいささかも停滞するところがない。それは人間の肉声ではなくて、他界からひびいてくる精霊のささやきのように聞えるのであった」(「友枝喜久夫 老木の花」美は匠にあり 所収)