お手伝いで

ペルシャ絨毯の展示会に(現仕事場の紹介なども兼)。工房ごとに作風が違うのだけれど、どれも柄を浮き彫りにするため糸を削ってあり、きめが細かくて見入ってしまう。フローリングの上にさらっと敷いてあっても素敵だと思う。お値段は高いのですが、半分くらいアンティークとしての価値が出ると、二倍くらいの金額になるそうです(とはいえ、お値段より見た感じで気に入ったものを買うのがよいのかも)。


電車に乗りながら、『敷居学』というベンヤミンについて書かれた本をパラパラとめくり読み(再読)。最初のところに、ベンヤミンが伝統的な幾つかの言葉の使用にこだわった、というような事が書いてあり、私はそれが出来事なり文章なりに一貫性を持たせるコツなのではないか、と思う。ロマン主義に対する距離の取り方などについて、ここ何ヵ月か考えていた事が書いてあり、ベンヤミンを読む時に感じる、自分の感じているような事はもう何十年も前にベンヤミンが書いていたんだ、という感じが戻ってくる(それで、ものすごい誤爆の人権侵害とプライバシー侵害に見舞われたものの、私は基本的に市井のベンヤミン読解者で居たいと思っている事、その立場から諸々の越権行為が何も新しい発見なんてもたらさなかったという事を、当の権限が少しでも無用の長物に見えるまで繰り返し書いて行こうと思います。似たような被害に逢う人が自殺に追い込まれると不愉快だし)。

宮台真司さんに対するクレームを書いているので(サブカルに意味を見い出す人に個人情報が筒抜けになるのはすごく迷惑でおぞましい事だったので仕方なく)、行き掛かり上、ずっと思っていた事を書きますが『複製技術の時代における芸術作品』の読み方が、「アウラ=神性降臨の賜」という捉え方に寄りかかりすぎているように思う。このエッセーは最初のくだりで、「以下の論述において芸術理論に導入される諸概念は、ファシズムの目的のためには全く役立たないという点で、あのありふれた諸概念(註:創造性や天才性、永遠の価値や神秘の概念)とは異なっている。他方、ここで新しく導入される諸概念は、芸術政策における革命的な要請を、定式化するための役に立つ」と断り書きされている。論文は1992年以降のサブカルチャーの意味論的な変遷を扱っていて、テクスト論でも芸術についての文章でもないので、『複製技術の時代における芸術作品』の「有名な定義」をパラメトリカルに読み替えるという事もあるかもしれないけれど、もともとファシズム的な欲動に対する抵抗として書かれたエッセーの動機を大幅に踏み越え過ぎていて、何だか妙な感じを受ける。 ここで、というより以前からずっと疑問に思っていたのだけれど、神性降臨は常にアウラを孕むものなんだろうか。例えば新興宗教儀礼に伴うある種の自己犠牲は、それ自体がオリジンの宗教儀礼の複製に過ぎない訳だし、ある新興宗教の信者が陰口を叩いていたように、教祖の行動に対するノリツッコミみたいな感覚に満ちているんじゃないだろうか。確かに生活のある層が外傷化されている事に伴うアウラ(骨がらみであるため、他の人が外から解体出来ないような妙な雰囲気)はあるだろうけれど。

ここまで書いて『複製技術時代における芸術作品』を読み返す。ベンヤミンは就職適性検査のこととか、呪術的な治療と医学の違い、スポーツのことまでこのエッセーの中で書いている。暫く読んでなかったけれど、本当に凄いなぁ。
例えば宗教と性愛における包括的承認、という話を聞いた時、それは確かにウソではないと思うのだけれど、とりわけ宗教の包括的承認はリスクが高いし、新興のものについてはなんの歴史的な蓄積もないため、ある人にとっては承認が素直に受け入れられ、ある人にとっては全く無理という事が起こりうると思う。ある人格の包括的承認が世界や宇宙そのものを包括的に承認している訳ではない、と分かる時、人は全体的な承認の綻びに気付くのだが、本当はその時、一回性に基づく
アウラの感覚が発生するのではないか。(それで、すぐれた芸術作品なり宗教性がある、と感じとり、相互に承認しあえるのは、たぶんものが全体性を断念しながらも全体に連なろうとしている時、そこに作用している個人の切実な刻印による。あらかじめ、宗派的あるいは性愛的に、お前を包括すると言い募る口振りが痛くて冴えないのは、薄々はこの切実な刻印しか生きていない、と感じるからで、そんな刻印から観照してみれば、全体主義的な動機に貫かれた神性降臨なんてキモいだけのものなのだ)。
、、他に、シュヴァービングと秋葉原についてとか考えたのですが、これもアクシデントに見舞われてシュヴァービングについての本を一冊しか読めていないのでやめにする。