こんな事書きつつ

気になってもう一度宮台さんの論文を読み返す。(一次的現実の中であんまり社会学が問われてる気がしない)何だか社会学が自明性を解体する使命を帯びている、という口実で、汎用性の極度に低い(程度も低い)文章が書き散らされているように思う(ただ一つ誤解していたのは、システム論というもの自体が、コミュニケーションに基づいて一瞬だけ共通認識を組み立てられればそれでよいため、ベンヤミンアウラについても一番最もらしい解釈を置けばそれでいい訳で、すごく一般的なイメージとしてはアウラ=神性降臨、というのも間違いではないのかも知れないと思った。それにしてもそんな部分だけを恣意的に解釈したら、『複製技術時代の芸術作品』が書かれた意味が完全に欠落するけれど)。ニュースのトピックスで、本性を偽装のうえ学生を勧誘するカルトの話が再三に渡って上がっていたけど、宗教的なものへのきめの粗い回顧(郷愁)を温床にして、相当停滞したことになっているように思えた。

エントロピーの増大について、科学的な数式の内実を説明出来る人を凄いと思うのだけれど、要は混乱し意味内容が体験した出来事の数だけ増え、そのぶん私的言語の集積に過ぎなくなったものをそういう状態なんだろうな、と思う。そういう状態を苦痛に思うから取るアクションとして、お茶飲んで寝ちゃおう、とか、般若心経を写経するとか(私の祖母はそれが得意で、触れたら手が切れるような字で書き写した本がどこかにのこっているはず)、ちょっと楽しい時はほのぼのするために百人一首を書き写すとか(これも祖母の特技で、何故かゆるい可愛い字で書いてあったのが、やっぱりどっかにあるはず)、そういう手続きがあるのだと思う。他人にそのプロセスを定義付けられる事なく、自分が一番納得出来る方法を取って自己回復するのなんて最小の権利でしかないから、私はそれを疎外して社会を僭称する学問から整わない、ブッサイクなオーラを感じる。巻き込まれ続けるのは自傷行為にひとしい。