セクト規制法

本当はTOEICを受けにいく予定だったのだけれど、受験票をどこかになくしてしまい、諦める(次回の5月にむけてどうにかしないと)
たまたま内装の職人さんを紹介した物件が、とても綺麗で素敵な仕上がりになっていて、実際に見に行きたいなぁ、と思うと同時に、ちょっと今後の事をまともに考えないといけないと思う。(何を、と言うと、自分のプライバシーと関わる人のプライバシーを。下記のような事を書いていても、打ち合わせに出たり挨拶したりしているので、法的に決着でもつけない限り、人格欠損者の束に付きまとわれている、ではすまない)。
例えば、雇用のスカウトメールが来ていたのは全て創価学会系列の会社ではなかったので、私が単に仕事場でしていた仕事について説明出来れば問題なく業務に当たれるのだけれど(仕事場を変わる気はないけれど)、その事と別に見込まれてしまった無駄な精神性をどうすべきだろうな、と思う(私はこの宗教のひとたちと同席しても、とにかく身体の関係も含めた親密な関係と、姻戚関係だけは持たない事にするつもり。何かやたらと汚いというか、欲求が理解出来るようなこなれた感じじゃなくて、大義名分を持ち出してくるので頭の調子が悪くなるのだ。あと私も別に凄い軽い性格じゃないけれど、概してねちっとしてて重たい性格の人が多い)。
要はなんというか、社会学を口実に、要人みたいな人にあてがって奉仕させようとしたんだろうけど、そんな事と関係なく本くらい読みたいし、と思う。とりあえず、全体的にベンヤミンを基軸にして、セクト的な手口を解体していく、という読み方を中心に戻す事にする(そもそもはアドルノのミニマモラリアに触発されて、14行詩を連作で書く試みだった)。
もし学者で下に書いている程度で許されるなら、英文でまともに日記をつければ私の方がマシかもしれない、と思う。と同時に、セクト規制法については本当にアクチュアルだと思うので、読みたしていきます。



つきまとってくるグラビアアイドル、学会員でたぶん地頭がもの書きに向いていないので、営業にいかされた先で、私からパクるよう指示されているのだと思うのだけれど、何かそういう感覚のおかしさがこの宗教に対する誤解を生んでるような気がする。というより、やっぱり創価学会がいくら大きくなっても、コミットするのは絶対嫌で、一般的な仏教の方が感覚的なロスが少ないと感じてしまう。単に日常的な話をするぶんには宗教とエスニシティで齟齬なんてあり得ないのだけれど、色々な意味で完全にどうかしてる人が多い気がする。
般若心経は法事のときに唱えているので、たぶん真言宗かなにかだと思うのだけれど、人に苦痛をもたらすような宗教に入っている人とは一切関われません、と書いておく。頼むから自分に関わる神性についてくらい、自分で吟味してバランスを考えてほしい。

神性降臨→エントロピーの増大→私的言語への閉塞、というモメントが、批判の伝統的な概念と解離したまま個人の恒常性の領域や器質に重ね焼きされてしまう事に対して、抵抗(フロイト)や現象学を経由した整合性の取り直しを行う、と書いて、たぶん凄く変な事をしようとしてるな、と思う。第一精神操作だの人権侵害の被害者はフロイト現象学なんて読まないだろうし。こういう問題提起自体普通に生活してれば、鬱陶しいものとしかみなさない。