織り込み

急に土の上から空を仰ぐようなアングルになって、カメラが止まる。雲の滲んでいる白い色が縁に痛いほど映りこんで、あざとい。ある時期を境に傷のあざとさみたいなものを感じるようになり、滅多なことで辛いと感じることはなくなったのだが(その代わりしっかりとその事を伝える)、未だにそういう陰気なコミュニケーションでしか自分の位置をプロット出来ない事になっていて、何処に移動しようとそれを見つけられる限り、何を考えようと、思考が内在しようと外化しようと同じ気がする。という感慨の科学(或いは神経工学)的なボリュームが、厳密に数式化出来、思考の外化に伴うデリールとか、退行みたいなものが差し引かれてぴったりと自分が居る空間の中におさまれば、そこそこ考えは成功なのかも知れない。で、そういう感覚は、本当は十代も若い頃に特有のもので、あんまり一生通じて取り組むような事じゃない気もする(普通はだんだん生活習慣の中に自分の嗜好が落とし込まれて、その中ではっきりこういうものだけはイヤという識別が出来るようになって、変に煩わされずに済むようになるはずなのに、反成熟みたいな事がコンプレックスと混ざりあってお題目と化しているようなものを見ると、何か圧倒的な違和感を感じる。 サブカルチャーがどうでもいいかどっちでもいいのはたぶんこの違和感に起因してて(といっても、もともと何の疎外感も孕まないサブカルもあると思うけど)、しかもイヤなのはそういう表現に特有の慰撫的な超自我の形式があって、いちいち変なとこだ。で、監視社会とかアーキテクチャの構築と一緒にそういう目線が作用するときに、すぐに間違いを補正するにはどうしたらいいのか、というような事を、また少し考える。