イチローすごい

朝にカレーはあまり長続きしなかったのだけれど。
イチローすごい。ある意味メディアと洗脳とか考える間もないくらい頭がすっとする。白アスパラのサラダはデニーズにあったので食べる。

仕事するたびに思うのだけれど、クッションフロアって何で一律硬くて傷になりにくいタイプに切り替わらないのかなぁ。便利だしつるっとしてるので好きなんだけど。あと以前、私はメーカーの営業さんと話しながら大絶賛したことがあるのだけど、機能クロスのA4版の見本帳が便利で、そのまま持ち運び出来るから気にいってた。とか何とか考えてあれこれしてるのだけど、過ぎ去ってみれば内田樹先生とか本当に何がしたかったわけ?なんなのよ、と思う。メールで「愛してる」とか言われることがなくもなく、しかもその人は基本的にそんな親しい訳でもないから(去年会ったのが初めてだし)、どぉしよう書いてくれるがままにしとこう、と思ったのだけど、次の日内田ブログに「愛していると言われる人間が生活を改めようと思う事は稀だが、嫌いと言われる人間が自分探しの旅に出たり自己研鑽するのはやっぱり自分が認められないからだ」みたいな事が書いてあって、なにこの人が書いてる事の丸ごとの裏返しみたいなの!と思ったらものすごいイライラした。
今朝その事を考えてたのだけど、表象文化論科に文転した私のかつての彼氏と、養老孟司先生の話をしていた事があって、当時まだ批評の本をリアルタイムで読んでた私は、凄く無謀な事に「蓮實重彦先生が学長を勤めてたあとで、解剖学の権威みたいな人が重要な立場って何か物凄い作為がなあい」みたいな事を聞いたりしたのだった。一つ確信してるのだけど、表層批評宣言で小林秀雄的な批評が解体されて、ポストモダンだから主体はない、っていう流れになったあと、それをひっくり返す小林秀雄的なものの回帰には相当えげつないというか妙な力が作用してて、しかもその妙な力動に対して科学的な構えを取ってる人なんて誰も居ない。あと批評としての構えを取っている文学者も居ない。あるのはそれこそ「バカの壁」みたいなシステムのシステム性の強化と、中間物質として作用している霊的なもの、それを引き出す暴力と自己犠牲についての単純化されたお話ばっかりなのじゃないかしら、と思う(それは「小説から遠く離れて」という、たぶんいまだによく読まれている批評の本のなかで「物語」として退けられたものだ)。
いくら商業出版上義理立てしなきゃいけないとは言え、何で文学者は怒らないんだろうなぁ、と思う。批評は別段教条文とか呪詛と反動で語られる愛の言葉ではないはずだから昂る必要はないにしろ、あるシステムが覆い隠すか断絶させてしまったものが何なのか分からなければ、それは駆動する事さえ出来ないわよねと思う。