分子から精神へ

古本屋で購入したエピステーメー叢書の「分子から精神へ」(柴谷篤弘・藤岡喜愛)を読む
(買うちょっと前に、瞬間的に、リブロポートだのトレヴィルだのから出てる本とか、
エピステーメー叢書だのを古本屋で買ったときのことを思いだしていた。そういうことが
衒いと結びつくみたいな社会に生きてたことがなく、単に読みたかったのだけれど。変な
ことを思い出していた。この叢書のシリーズになってるハックスリーの「知覚の扉」、
子供のころに近所の古本屋に買いに行ったのだった。読んでみたくて)。
 電車の中で、四苦八苦しながら読む。意識についてつきつめて考えることは、
伝統的に、感覚的に自然とは言えない持ち出しの上に成り立っている。アーサー・ケストラーも、
ベイトソンも(ちょっと違うけれどアルチュセールも)、死の衝動にとりつかれたというよりは
単に、どこかで生きてることの根拠のなさみたいなものを覗き込んだのだ、という気がする。
(ので、私はこのひとたちの本を読むのが結構苦手で、それに比べてブランショみたいに、書く
ことにともなって死についての言及の基底が変わるのを感じると、なんとなく気持ちが膨らむ。
実際にすごい長生きだったし、沢山書けるというのはいいことだ)。
 ひとつ流れがあって、無根拠さを緩和するために、こういう問いに引っっかかったあとで
ホリスティック医療とか民間療法に凝るというのは、珍しいことじゃないのだろうなと思う。
自炊で全粒粉を使いながらボディセラピーを習ってたときのことを思い出した(今でこそ
一日5杯も6杯もコーヒーを飲むけれど、そういう時コーヒー飲まなくて、そうするとなんと
いうか身体に<止め>が出来て息が楽になる)。
 
 感覚的に自然ではない持ち出しが全部システムの側に仮託されてしまって、生きた人間の身体
を統制しており、さらにそこに逆差別の問題が絡んでいる、という現況を、どう転倒させるのか
考えたときに、なんとなくファシスト的な連続性への志向が解るような気がするし、ものすごく
身もふたもないかたちでそれを考えたいという気持ちが少しある。偽悪からと
いうよりは、単に法だの警察だののファンクションを問ったひとたちの方法を、子供みたいに
真似てみたいのかもしれない。