同一性と揺らぎ

久しぶりに夢を見て、それが二階建ての建物の中にある部屋(壁があじろ編みの草の繊維で出来ている)の中に居る、というものだったため、もう少し非現実的な夢を見ればいいのに、と感じる。

例えば、神経工学が人の同一性をどう定義づけているのか、アイデンティティというまとまりから退いた時の色々なイメージをどう測量しているのか、そんな事が気になる。
メモ。
ミモザの匂いを背に洋間の窓から首を突き出して夜を見ていた自分が、これらのことばに行きあたった瞬間、たえず泡立つように騒々しい日常の自分から少し離れたところにいるという意識につながって、そのことが私をこのうえなく幸福にした。たしかに自分はふたりいる。そう思った。見ている自分と、それを思い出す自分と」(須賀敦子『遠い朝の本たち』)

ちょっと前から欲しいと思っていたホフマンスタールの詩集を購入する(その時に、場所なり本に、それをそう成り立たせている中心がある、という事をある一つの言葉を使って考えていた。私は何でこういう事が起きるのかを考えると、いま日本で芸術とか表現とか言う人の本質的なさもしさ、潰しのきかなさ、依存しないと採算の取れない非自律性を思わずには居られないんだけど、その考えは疑似シンクロニシティ的に収奪された。非自律的であるという事は、僭称でもモダニスムに属する思考なんてあり得ない、という事で、そういうものが頼んでいるかくれ神秘主義的なマトリクスの緩慢さについては以前書いた事がある。でもそういうものについての批評はどうでもいい事だ。一個言えるのは不況下でもみんな工夫してどうにか次の事を考えようとしている中で、そこまで気持ち悪いものと同等の空間に身を置かなくて済む事がせめてもの救いだという事だ。精神的に同期することの釈然としなさは残るけれど。私はこの事について考える時に、どうしても東京の周辺的な地域の居心地の悪さ、中途半端さについて考えてしまう。何が気味悪いといって、人が独立した考えを持つ事が一切牽制されてるようなあの空気は並みのホラー映画よりよっぽど怖い、入り込めないものがある。普通の民家とか、人が活動しているところはそうでもないのに。必要と惰性で居たそういうところで、「触るな!」と書いてある注意書の下につり上がった人の目が書かれていたのを見て、そのあまりに古い感じの表現をするセンスに全身総毛立ったことを思い出す。たかだか四十代までの人しか居ないところで、注意書きに人の目って気持ちが悪すぎ)。