化合物/ヒトはヒトの夢を見るのか

 「マインド・コントロールの恐怖」という本に関心があり、どこで手に入れるものか考えていた矢先、
古本屋さんで見つけたので購入する。(「想い出のエドワード・トマス」という本を手放してしまって
いたのだけれども、買い戻す。これは一次大戦中に志願兵になって戦死した詩人のエドワード?トマスと、児童文学者のエリナ・ファージョンの交流について書かれた本なのだけれども、「30近くなるまで、自分の家族と一緒に考え出した空想的なゲームの中に生きていたため、18才の少女のように現実の生活についての知識がまるでなかった」というファージョンの事が、素朴に恐ろしかった。16か7の時に初めて読んだ時の事だ。今29才の私はそこそこリアリストだけれども、世の中には色んな事を回避し続けて40代だろうが60代だろうが異常に子供くさく、とんでもない迷惑行為で立場の底をあげる人たちが居る。
つくづく思うのだけれども、人にとって生理的な嫌悪感というのは何にも増して大きくて、私はその人間が自分の事を見張ったとしても、その人間の表現を重要視する事なんて一瞬も出来ない、と感じるものは、多分一生変わらないのだ。ヘタウマみたいなものが心底大嫌いで、何か気持ち悪い、と思ってしまうと以前書いたけれど(これはほんとにヘタなので、相応の収奪的なパトロンと結びつかないと商業展開できないのが容易に予測できるため)、ここに「抽象表現主義」も入れようかと思う。
 いわゆる「抽象表現主義」の絵は好きなのだけれど、それが成立した時代とその周辺にあった文化(シュルレアリスム的なオートマティスムの影響
とか、神秘主義ユング的なシューレの作用とか)を離れて、いまそれを展開しようとする流れのなかで、結局何が下支えになっているか分からないから、
不明瞭な「シンクロニスティックな収奪」が薄気味悪く感じられるのだと思う。(それで本当に精神病になってしまった美術評論家の方が居たと思うけれど、いきなり時空間の制約を越えて、自分が考えていることが感覚的に他者から看取される、というのは、実はありふれてて、しかもあんまり幸せな事態じゃないんだと思う。それは、その時代に抽象表現主義の作風で描いたり展開した人たちの辿った在り方を見れば分かることだ。だからというわけではない
けれど、意識してそういう情報−抽象化する情報−にアクセスすることを避けているにも関わらず、そういうものからの呼びかけというか執拗な同期が
重なる場合、それが何の芸術作品でもなく、あまり芳しくない霊性の容れもの、もっと言うと「なんかの回し者」みたいに感じられてしまうことは仕方が
ないのだと思う。どちらにしろ、それが表現として成り立っていた時代といまとでは、色とかオールオーバーの絵の具の滴りとかが担える共通感覚の質が
全く違うのだ。
 「シンクロニスティックな収奪」が実はありふれてて、しかもそれを巡る理論の仕事を誰もしているように見えない、というのが、実は一番寒い事態
なんじゃないかなぁ、などと考える(ので、日常的なことをしていて、こういう出来事のことを忘れており、人ととるコミュニケーションが正当に
不透明な媒質で成り立っているとき、私は比較的幸福)。