白いピース

かたちを結ぶ前の考えの中に、白いピースの鳩みたいなものの影が浮かぶ。幾つも缶から切り出して浮かべたみたいに。斜めにその画像をやり過ごして視点を合わせた先には夜空に流れ込む青い水分の流れがあって、それらは簡単に上下を決められない。
幅の広いオレンジの袖が付いたシャツの上に置かれているある種の貝殻。輪郭が手を切るように鋭くシャツは内部で血を流している。風に捲られる袖から少しだけ出る手首が枯れた象牙色の花のようで、硬さも何らかの熱も籠っている。そうやって背理を見るのは何かの新しい景色がやってくる予兆なのか、それとも単に、ずっとここにあったもののかたちなのか分からない。 ♪
詩の連作にまつわる権限が、世界のどこに置かれているかについて考えていた(あるニュースを見て自分の卒論の一部があからさまにパウル・ツェランでしかなかった事と、ずっと機会がなくてデリダパウル・ツェラン論を読めなかった事を思い出す。ものすごく独断に満ちた言及しか出来なかったのにこざっぱり評価して貰えてよかった。そのこざっぱりした、人を慰撫も過大評価もしていない感じをちゃんと社会に組み込もうとか思えて、いつも仕事に就けていてよかった)。それがずっと自分の関心だったけれど、訳の解らないもの、のせいで考えにスが入ったようになっている(訳のわからないもの、内面を解明しようとする過大な努力)。

仕事の支度をしながら、あれこれ考える。早急に必要なのは、「自明性の確保」だ、と感じる。
 人間の中には積極的に関わりあいになることが馬鹿馬鹿しさしか生まない、そういうタイプの人間が居て、何の進歩もないお題目を
際限なく唱えることでのみ自分の立場を保っている。(この時のお題目、という言葉にはニュアンスがあり、どんな形態であれネガティブ極まりない
宗派性と結びついて居る。どんな言葉を吐こうと、関わりあいになってはいけない。そこにあるのはヒステリックな支配欲動と、
そういうものを否定された時のほとんど際限ないたわごとと暴力の再犯、人間性の否認、空語のようなものだ。深部にある団体の名前は画定
しない。それが部落的なものの逆差別であろうと、カルトの人権侵害であろうと、単にキモいものの空回りでしかないことだけが確かなのだから。
 特に私はそれなりに年齢が若かったり、人から認められることも人を認めることも苦痛を伴わない、ごく当たり前な人に言いたいのだけれども、
今たまたま不況で仕事探しが大変でも、雇用形態が何であろうと、真っ当な信頼関係とそれなりの向上心に基づいて織られている出来事とか場所を
決して疑わないで欲しいと思う。未曾有の大不況であろうと、戦時中であろうと、どこの国に生まれて来たのであれ(独裁的な政権の手口を完全に
教え込まれているのでなければ)そういうものの遍在や感触、具体性を取り掛かりにして、人の心やそれに基づいた芸術、言語芸術に限らない書く
こと全般は幾らでも繰り返されて来た。それをひたすら無化しようとする自傷的な言葉だの、情動そのものの空回りがある特定の被支配層に万遍な
い再分配、立場の平等さや満足を齎すということは全くもってあり得ない。何故なら結局のところ、空回りする言葉自体が状況の病理から生まれた
ものでしかないからだ。被支配的な体制から抜け出した人はおそらく、自分の中にある種の抑圧された有徴性と同時に、人と共有しうるもの、単なる
自然の流れとある種の具体的な「何でもなさ」を見出したからそうすることが出来たのだ(本当に現実というところは、何でもないところでも
あるしそれが望まれている場でもある)。
 例えば「スターリン政権下」というのが固有の名前を伴う支配者の病理から生まれた体制を示していたように、これからもある病理に訣れること
の出来ない人間の際限ない空回りが表明されることがあるにはあるだろうが、そんなものに状況を変える何かが含まれていると思うほど、人も時代も
お人好しである必要はない、と思う。他人を虚仮にしようという努力を積み重ねる人間には、その程度の腐った現実しか齎されないのだし、それは深部
である種の腐敗の層を形成し、そこに突然あのミイラのようなもの、民家の奥で放置されたままの病人だとか、ある種の訳の分からない昂ぶりに満ちた
オカルティックな形象を浮かび上がらせる。それはやっぱり十全に世界と呼応しているものではないし、大半の人間にとって別段感覚せずにすむたちの
ものなのだ。