村上春樹の新刊本/フィル・スペクターの量刑画定

買って読んでしまうだろうなぁ、と思う。海辺のカフカを読んでいる時に、猫殺しのジャック?ダニエルみたいな暴力とデリールの恒常化、みたいな事を淡々と思っていた(私はあまりいい村上春樹さんの読み手ではないのだけれど、やっぱりどうしても読んでしまうのは、そこに起こりうること、が書かれているからなのだと思う)。
 フィル?スペクターの量刑が画定したみたいで、終身禁固の不定期刑、ということは余生を全部刑務所で暮らすことになるということなのだろう。69歳で無茶無茶不摂生だったとしても、完全な狂人として幽霊みたいに長生きする人のような気がし、ビートルズのプロデュースも含めたスペクター?ポップの版権とか、今後の取り扱い、みたいなことがちょっと気になる。youtubeのコメントにも量刑についてのお話が沢山書かれている。
「ペット?サウンズ」を読んだ時に、つくづく「愛」や「革命」やポリティカルだったりノンポリティカルだった60年代は、ひとを全身全霊で病ませたり回復させたりしたのだ、と殊勝な気持ちになったのだけれど、そういう事柄が尚現実の世界に影響を与えているということを、溜飲の下がるかたちで多角的に書いて教えてくれる作家と言うとやっぱり村上春樹なんだろうな、と思う。「ペット?サウンズ」みたいなかたちで、その回復過程について触れた本が出版されても、思っているほど誰も完全になんて癒えてないのかもしれない。愛とか革命という語彙に収斂するような共同幻想から完璧に醒めたあり方なんて無いのかも知れないけれど(かたや、文学とか表現みたいな世界での、全然割り切れない共同幻想の濫用について、私は完璧に怒っていて、その後ろ盾が統一教会だろうが創価学会だろうがこの際全く関係がないと思う)。
 「卵と壁」のスピーチを読んで、関係妄想とか実際の精神操作を伴うストーカーの問題とは全く関係なく、ここで書かれているのは私のことだ、と感じたひとは多いと思う。
「あるシステムの成立後、それ以前のシステムがどうだったかを思い起こすことが難しくなる」「その中で無力なものとしての自己決定を強いられる」という経験をさせられすぎているから、だと思う。例えばの話、おそらくひとはかなり肌理細かく、意識や出来事についての思考を重ねていたのだが、ある種の暴力的な状況(不況もそのひとつ)が肌理を塗りつぶすように到来すると、他を上手く喚起することは難しくなる。それをもう一度確認するのはプラトニックな想起でも、疎外論の適用でもなく、し始めた思考の仕事を前に進めるために必要な手続きなのだけれど、「システム」はあくまでも(巧妙に)ある種の閉塞感の中でだけ自己決定するように誘導する・・・
 これを稚拙に書くと陰謀論になるのだけれど、そこそこ的確に指摘できれば、それは現在について書いていることに他ならなくなる。文学っていう言葉を使うかどうかなんていうことは別として、やっぱり色々な人が、そういう風に現在を割り切り、少しでも自由になりたいのだ。                         ♪
 警察の生活相談課に、先に状況証拠(類似点の指摘)として保管してもらっているブログの抜粋をもとにして、これに長く書いてきた嫌がらせについて、初めて
出版差し止め請求を出そう、と思う。仕事したり色々と他のことをしながらだと結構大変なことにはなるだろうけれど。それにしても、最近は警察も私の正当性を
認めてくれているのか、持っていく資料はきちんと証拠物としてくれている。ごまかせないところまで来ているんだろうなぁ、と思う(某弁護士さんの書いたものを
読んでいたら出てきた、統一教会信者の逮捕についての話も、私にとってはちょっと救い)。
 経済的にどうであろうと、幾ら人数が多かろうと、三権分立だの政教分離を大きく踏み越えた政党を戴いてる時点で、本当はものすごく気持ち悪がられている
でしょう、と伝えると、別に同調でもない様子でそうですね、と言ってくれたのは、すごく嬉しいことだった。


 嫌気がさして読むのをやめてしまった「マインドコントロールの恐怖」を読了する。1988年に出版するために書かれた本だということを知って、びっくり。
 どうしても95年に起きた事件を基準にカルトというものを考えてしまうのだけれど、たぶん色々な国で、60年代くらいから普通の生活のオルティネートと
して新興宗教だのニューエイジが流行し、その後一応は触れるべきではないものとして沈静しているのだ(このあたりのことについて、私は卒論を書く前後
と96,7年にかなりまとめて考えた)。嗜好としてのオカルトというのはなかなか排除しきれない問題かもしれないけれど。
 それから、これは大事な情報なのかもしれない、と思えたのが、DSM−?では、カルトの人権侵害およびマインドコントロールについての項目があった、
という部分で、これがDSMの?になってどう取り扱われているか詳しくは分からないけれども、そもそも精神医学会が無下に「精神操作されている=統合失調
の類型症状」だという判断だけを下しているわけではないのだと確認できてほっとする(そもそもこういう事柄に加害している人自体が、精神分析だのいわゆる
心理学について真っ当に会話できるような性格じゃない、というのは、経験則として分かっていることなので、不可避に被害に遭っているひとには絶望しないで
欲しいのだけれど。大体加害している人間のほうが廃人予備軍みたいなのが多いんじゃないか、と思うとやるせない)。
 それにしてもぞっとするのは、どんなカルトの操作も、この本に書かれているものより遥かに亢進しているということだ。精神的な所有関係についての言葉
を、一度全部改めなければいけないのかもしれない、と思う(詩に関わる精神状態の神秘性を、完全に離れたかたちで)。