メニューの上に/あのねぇ

クリーム色の厚みのある布で作られたメニューがある。捲るとそこには雲のかたちをした銀色の切り抜きが沢山散りばめられており、指先で触れると銀の粉で汚れる。ある種の遠さから、自分が1日を過ごす空の分量が決められてもたらされる、そんなメニュー。雲を擦る事に合わせて、周りの空気がゆっくりと変容していた。


片側の壁に塗られたペンキは萌木色で、揺れる幾本もの柳の枝の感覚を隠し持っている。それはある瞬間にきらめきながら壁の全体から流れ出てしまい、広い場所を、種子を含んだ柔らかな植物のかたちが往き来する。

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 メーカーの営業さんとお話しながら、ずいぶん色んなアウトソーシングの形態があるんだなぁ、とちょっとびっくりする。
 困ってるときに色々助けてもらってぶじ納品できたり、ということがあったので、メーカーの営業さんありがたいです。

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 一応、見込み年収が自分の10倍以上の方については名前を出して批判する、という独自ルールがあったのだけれど(内田樹先生とか)、もう怒ってるのできっちり
名前を出そう、と思う。古谷利裕さんという画家について。
 私は、集中していろいろなことをするために以前の人間関係の中で、いらないものはばっさり切ることにした(その代わり、長く連絡を取りづらくなってしまっている
学生時代の友人と遊びたいと思っているのだけれど、面倒なことや宗教がらみのヘンな出来事に巻き込むわけにはいかないので、まだ保留にしている。それこそ小劇団
の女優さんとか、絵を描いていたりしていて、偏屈でも自分の世界を持っている子ばかりなので迷惑をかけたくないのだ。その中には、以前「風の旅人」という雑誌
の編集部でアルバイトしていて、編集長と喧嘩になって辞めてしまった子が居るのだけれども、後述する理由で私は自分の友達が、それほど感覚的におかしくなかった
のではないかと思っている)。
 まずは会社内での嫌がらせとしてストーカー行為が始まったすぐ後くらいから、これってある種の企業体(オカルティックな思考に影響されやすい)とマスコミ、
メディアの売り上げで本を出版している純文学系の作家の間でループしている出来事なんだな、と思ったのだけれど、それらが目的に掲げているような出来事(例えば
人の脳機能をトレースすることによって、意識と現実の謎を解いてノーベル賞を取るとか)は、たかだか民間人を被験体にとったくらいでは絶対に遂行できない。せいぜい
そういういかがわしい技術を導入している団体のルールに思考が侵されて、体調がおかしくなるだけだ。(で、そういうことをブログで書いたり商業
出版している人に対して、企業なり政府はちゃんと賠償しなさいよ、と思う。私はたまたま10代のうちにユングフロイトも全部読んだし、以前日記に書いたように
帝政と思考についてと、芸術のメチエみたいなことと、カジュアルな思考変容の技術は意識を解明するか、という三つくらいの観点から意識について書こうとしたことが
あったので、多少妙なことが起きても完全にはもっていかれないと思うのだけれど、シュルレアリスムだの芸術だのに関心がないまま巻き込まれたらものすごくしんどい
だろう、と思う。それから、帝政と思考については、本当に冗談じゃなく資料を集めながらすーっとブラック?アウトしてしまったのだ。考えごとしながら気絶して
しまったのは初めての経験だったので、これは今考えてはいけないことなのだ、と完全にシャットダウンしたのだけれども。今でも、ある批評家の作品と絡めて書かなきゃと思っているのだけれども、警察が事件としてのフレームを作ってくれないので、途中になっている)。
 いわゆる「アートの人」が、「社会的であろうとする努力に感情的負債を与えることによって表現するオレ」みたいな自己像に固執するのは何となく分からないでも
ないのだけれど、40代でそんなのはないでしょう、と思う。本当に、何で発想を真似たりこちらの語尾をなぞったり、一日あけで同じようなことばかり書かれたり、
そんなことばっかりされなければいけないのか分からない。(ちょっと前に、私は自宅でずっと育てている山紫陽花を写真に撮ったのだけれど、その直後にもヘンな
言及があった。デジカメとかの記録媒体まで吸い上げているとなるとちょっと考えられないくらい気持ち悪い。特に造反とかそういうことを考えるわけではないけれど、
アートだの表現だの、と言っている人のほうが、経済的な制約とか制度と癒着していて不自由だなぁ、とつくづく思う)。
 「風の旅人」に執筆されている方々を見ていると、世間的には盗作を繰り返している作家だと認知されている人も居るし、思考形態が基本的に稚拙な疎外論ベースド
なのよねと思う。でも、この世界の外部を狂気だの未開の地に求めるあまり、カルト的なものと結んでいる作家を称揚するのはどうかと思う。少なくともそれを
選ぶかどうかを決めるのは「摂理」ではなく読者の判断だと感じる。この編集長もたまにこちらの書いていることによっかかって来て、しかも私がものを書くときの
語尾でつい「〜だなぁ」と書いてしまうことがあるのだけれど、それを真似て書かれたときに一体何をしたいのだろう、と思った。
 前出の友人Kさんは、お互いに始めて会ったころに腰まで髪を伸ばしていて、彼女はそれをふわふわのカーリーヘアにしており、クラブに行くのが好きですごく
さっぱりした性格だった。その後一緒にゴッホの絵を見に行ったりしながら、「本物はやっぱり違うねぇ」とかいいつつお昼ごはんを食べたりしたときの愉しさの
ことを思い出す(ゴッホの絵を見に行くためには地下に潜って行ったのだが、天気のいい日に照明の光だけ受けてうねるようなひまわりの絵を見てから、
ちょっと青白くこわばった感じで「いいねぇ」とか言って、それからどうでもいいような話も含めて青臭いことを夢中になって喋り、またものすごく晴れている
通りに戻っていった時の気分のよさを反芻すると、そこに疎外論の作用する余地はない。私たちはこのままで充分他とつながっており、かつ居丈高で生意気な感じの
女二人でも、ものとか走り書きのメモみたいに小さな存在なのだ)。直接影響を受けているかは分からないにしろ、どちらかというと社会的で広大なものよりは、ご
く間近で起きる出来事と、それが意外に大きい出来事とも関連しているんだ、という流れの写真が流行ったとき、彼女は写真を撮っていたので、たぶんこの編集長と
気が合わなかったのだと思う。

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 美術館だの映画館に行くとき、男同士二人とか女の子二人とかで、お互い気兼ねもせずに絵をみたり映画を見たりしているひとたちをみると(異性同士で居ても
そういうオーラの人は居るけれども)、たぶん人間関係の原型をそういうところに置いているのだ、と思う。何の制約も上下の関係もない。話していることは突拍子
もないけれど、一呼吸後には現実にしか帰っていく場所がない、というような(そういう認識は別に性的な嗜好と関係ありません。ごく単純に社会生活していて、息抜きに人と会うときの支配関係のなさのお話です)。

 それに対して、芸術だとか文学は、何となくきな臭い超越性との絡みで、言えないことが多すぎるように思う。
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でもそれを言わなければ文学が文学である事の意味も、芸術が芸術である事の意味も無くなると思う。それらは国体だの宗派だののためにあると言うよりは、やっぱり感覚に起きた本当のこと、を、その後の時間がただに空虚なものにならないようにするためにある。断言してもいいが、芸術と文学は新しい感覚についての、ほんとうの事、言うべき事のためにあるジャンルだし、私は盗作でしか書かなかった夏目漱石だとか、人の書くことを単語レベルで真似たディキンソンを思い浮かべる事が出来ないのだ。