1Q84

 案の定売っていなくて、予約し、代わりに「死の海を泳いで スーザン・ソンタグ最後の日々」と「今日、派遣をクビになった」という
本を購入する。後の本については電車の中で読む(ある種の「労働自体の臨海」みたいな部分については思うことが
ある。今の仕事とは全く関係なしに、以前した日雇いの派遣労働と絡むようなかたちでだけれども。そこで会った20代の女の人は
SEの仕事をした後に海外青年協力隊に行って、帰ってきて仕事を探してる、と言っていた。またすぐ仕事に就いたのだろう、と思う。
「今日、派遣をクビになった」に載っているひとたちについては、みんなどこかで境遇を改善して暮らしていてくれるといいけれど、
としか言えないのだけれども、それにしても明らかに「その手のライター」としか言えない書き手がリライトしているような語尾で
書かれた文章を読むと、何となくこういった境遇を救うのは言葉でも何でもない、と思わざるを得ない)。


 「隠喩としての病」「ラディカルな意志のスタイル」「反解釈」「わたしエトセトラ」も、どれも好きで影響を受けた本ばっかりだ。
吸収のされにくさ、みたいなことを考える。ある決まりきったスケールで割り切ろうとしても読み解ききれない部分ばっかりだった。
(どこまでも分割できるのだけれど、そのことが却って、個人の質しか指し示さないような文章を読んでいると、それがどんな時代に
生きた人であれ突然すごく身近に感じられることがある)。
 ここまでの文章を、まだ本を開かないうちに書いた。それは別に病気に結びついている気がしないのだけれど、身体の調子があんまり
よくなく、特に内分泌と神経系を整えないと長期的な思考に耐えないなぁ、と思う。朝の電車の中でページをめくって読んでいるうちに、
スーザン・ソンタグが、自分はそもそも死なないと思っていたこと、色々な知識を吸収して、自分が吸収されるのを畏れていたこと、
初めてニューヨークに出てきたときに大きなアンティークの机を買って大事にしていたこと、を知る。全部その印象のまま。ソンタグ
アンティークの机を大事にしていたことなんて全く知らなかったし、吸収という言葉についてはふっと思いついただけだったが、分割
不能なものがあって、その中に言葉があるかぎり、ひとは知らなくても思い出すのだ。それを神秘主義的な語彙で括っても仕方ない、と
思う。
 本を買う少し前の時間に、宗教団体なり何らかの暴力的な手続きに巻き込まれた場合の正確な致死率(というか、一体正当な法規と
結びつかないまま、そういう目に遭った人がどれくらい亡くなっているのか)を知りたいと思い、でも告発するなり、反駁することに
比べたらそんなことはどうでもいいのかもしれない、と思う。前記のように詳しくは知りもしない人のことを思い出せるという、本を
読むこと特有の情感に満ちた経験に比べたら、電磁波なり科学技術なりを汎用して生身の身体を苛むことから創造性を汲んでいるもの
なんて、そのうち地獄におちるのだ。

 素朴実在論的なものの見方の外側に出るために、「旅」だのある種の神秘主義を置いて、そこに個人的にアクセスすることは
全く持ってその人の勝手なのだけれど、別段そういう手続きを必要とせずに何かがメタフォリックに変わっていくことを感じ
る人(そういう人はけして少なくないと思う)に、無理強いで旅の素晴らしさだのオカルトの濃ゆさ、みたいなものを教え
込もうとするのは、余計なお世話、としか言えないだろうと思う。大体そういう場所に甘えるから独立した文体で、自分の
発想で責任を持って物を書けなくなるのだ、と思う。日常的に生活していて、何もかもが独創だったりする必要なんてないの
だけれど、作家という職能の半分以上がパクリであるような事態はおぞましい(この項続く)。