アーモンドのかけら

 手のひらに乗るくらいの小さい竪琴を二台、どこからか手に入れる。

 土台になっているのはアーモンドのかけらで−−近づいてみると大理石の
 
 模様があった。竪琴は金と薄い青の組合せで張り詰めた弦からは色々な
 
 場所を明示する音が出る。方向を示す音に従い、それはまたどこかに現れるのだ。

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 電車の中でジェイムズ・エルロイの伝記を読む。・・・要はハリウッドの周辺のお話
なのだけれど、事実は小説より奇なり、でもあると思うと同時に、デリダが「法の
力」で書いていた、ひとの生活を完璧に脅かす高度監視社会の原像というのは、1920
年代(確か)には既に成立していた、というお話を思い出す。
 これは別にイイとか悪いとかいう話とは別に、日本はやっぱり、思考に対する権利侵害に
ついての分析がものすごく立ち遅れているのだ。ある意味(芸能界の周辺化された人間の最悪
さも含めて)LA市警より怖い世界があるなぁと思う。

                ♪
 「芸術」についてのスタンスというか。
 私は基本的に「表現」だけで生活を送ろうとか、カッコつきの「芸術家」とか「詩人」という
存在を信じない。というよりそれについて真剣に考えれば考えるほど、他の事もしてバランス取らない
とダメになるだろう、と思う。大体本を読むときに、サラリーマンに限らずある種のタイトな組織に一度
は所属したことのある人の書いたものしかにしかリアリティを感じない。
 大体、世間の人は「芸術家」が思ってるほどそれを特権化していないような気がするし、そうじゃなきゃ
レンブラントだの阿修羅展にあれだけ人が集まるということもないような気がする。いいものはやっぱり
いいし、見たいからお金を払うという人が年代を問わず結構居るわけで、未だにそれらに注釈をつける
だけの立場の人間がメディアから下駄を履かせてもらって「表現」しているというのは、すごく妙な事態
だと思うのだ(この項、飽きてきたので中断する)。