電車と思考

 朝夕乗っている電車の中で考え事をしている時に、その先に目的の場所が
あるのとないのとでは考えることが違うな、と思う。目的の場所まで行く
間に帳尻を合わせて考えようとするのか、本を読んでいるときの自分の
内側に異様に色々な景色が入り込むことがある感じ。それに比べて単に
移動が目的になっているときには、時間感覚が弛緩してしまって、その場
で起きている出来事以外のことは全く起きない。

             ♪

 打ち合わせ等々色々なことがある中で、つい茂木さんのブログを見ると
相変わらずで(相変わらずというのは、感覚質についての謎は解明に至って
おらず、私は微妙に粘着されているという痛い事態)、全くこの人は何を
やりたいのだろうなぁ、と思う。

 (打ち合わせも含め)「相手のある話」を分からない、というのは独我論
一バリエーションでしかなく、「意識の哲学」なり「心の哲学」のあゆみから
見たら完璧な退嬰でしょと思う。退嬰を指摘するのは、私が結局のところ
この領域での新しい発見や進展を、ものすごく望んでいるからなのだ。
(それは文体というか、芸術や文学で画定していくとなれば、「意識の流れ」
がそうであるような過度に独我論的な形式で書いていくことにも意味がある。
 でも科学的連関とか社会契約のレベルではこの限りではない。にも関わらず
この二つがすごくごっちゃになっているのがすっきりしなさの元なのよね、と
思う)。

                ♪
 完全に履き潰してしまった靴を2足処分する。ローヒールだったのだけれど
かかとが磨り減っており、よく履きました、という雰囲気になっていた。
(そのメーカーの靴は旅行の時に一日歩くのにも使ったのだけれど、やっぱり
かかとから壊れる)。