Waterloo Sunset
朝からずっと聴いている(Def Lepperdのバージョン)。大変にいい曲。
「ウォータールー」ってワーテルローのことなのだと知って
ちょっとびっくりする。
http://www.youtube.com/watch?v=esQIuBonGrY&feature=related
工業地帯に居る夢を見た後に、そこが実際にそういう場所でしかないことに
気づいて(解らないままに、どういう用途で使う場所なのかを考えようとして)、
段々病気になっていく瞬間があり、神も仏もない(もちろん「ともだち」も要らない)。
水辺をじっと眺めているとき、そこにいる人の生活が完全に分割可能なものではなく、
正当に部屋で区切られて、どこか過程の視えないものであって欲しい、と思う。わかります?
工業用水の流れているどぶ川の感じ。
♪
少し前に「風の旅人」という雑誌について書いた。
その中には、幾ら個人的なブログとは言ってもちょっと適切じゃないかもしれない盗作に
ついての私見があり、それを書いたあと暫く編集長が書いているブログの更新がとまって
しまっていたのだが、やっと更新したと思ったら「就職と消費の社会からの脱却」について
触れられていて、何となくこれも(紆余曲折あるとは言え)基本的には仕事しつつ色々と
中途半端になっていることをまとめようと思ってる私にとって、ちょっと気持ち悪い。
何だか自分のことが言われているようで。
この「何だか自分のことが言われているようだ」という感覚、自意識過剰な人の思い込みや、
分裂病(散々現代思想的な文脈から称揚されていた、あの「分裂病」)の初期症状
なのだが、ある種の表出が殆どそれ頼みでしかなく、しかも例えばドゥルーズの書いてた
こととか(一回読んだだけではよくわからないものだとしても)ガタリの実践とかと比べる
と、単に赦せないくらい幼稚な、完全にシステム任せの情報収集でしかないところに、怒り
とか緩慢さをおぼえる。それでいいのか、というか、たぶん問題提起と方法が凄くずれてる
のだ。
例えば個人の力なんかでは到底太刀打ちできない、大きな権限を持った広告代理店が、一極
集中的に情報収集する力を(多少の暴力的な手続きとともに)持ち合わせていたとする。でも、
「それ」が、人間の行動様式とか脳過程(いかがわしい)を完全にトレースする権限を持って
居たとしても、そのことが人間の意識全体を解明するとは思えない。(広告代理店は、
そういう場所に対してツーリスティックに振舞うことが出来るだろうけれど、本当に「この
場所」と関係のない場で意識を育んでいる人の行動様式は、ちょっとやそっとのことじゃ
解明されない)。そればかりか、「意識」というプロブレマティック自体が、本当にいまに
相応しいものなのかどうかも、私には解らない。(この項続く)。