打ち合わせ/LEDについて

 打ち合わせの際に、車の免許を持っているにも関わらず、およそ3キロあるカタログを二冊、
両手に持って移動する(色々書いてるけれど、本当に不当に危険な目に遭わされていたのだとすれ
ば、神奈川県警にはまともに仕事をして、早く溜飲が下がるようにしてもらいたい。冗談じゃない
わよ、という気がした。プレゼンでも何でも、そういう目に遭っていないときの自分のすること
に比べて数割精度が落ちているのかもしれないと思うと、自分に関わる人にも失礼。
 全部慰謝料で貰ったら、どれくらいの額になる人権侵害をされていたのだろう、と思う。それ
と同時に、どんな団体が先導しているのであれ、精神操作は絶対によくない出来事なので、一刻
も早くそれについての法案を作るべきだと思う)。

                  ♪
 言うまでもなく、個人情報をトレースしながらしかものを書けない「もの書き」が居る場合、その
人間の脳波を取って何の精神病か調べればいいのだ、と思う(実名を挙げて批判していたある人のブログに、
また例によって個人情報が抜けている。その人は住んでいる場所からしても、創価学会がらみで
活動している可能性がものすごく濃厚。大体、バカにも関わらず食い詰めもしないのは、学会活動
のお陰でしかないからじゃなの、と思う。実作が薄っぺらな分、訳知り顔の「批判」で嵩を出してる
タイプの人間の弊害についてよく考えるのだけれど、出版業界は一度「もの書き」全員に、強制的に
小説を書かせればいいのだと思う。構文とか書くときの語感の癖が、どれくらい可変性のあるものか、
とか、それまで何を考えてきたのかが如実に明らかになるし、今売れているものへお金を流して眼高
手低な構えを取ることによって時間稼ぎをするというタイプの「批判」なんて、殆ど何の意味も持たない
からだ。映画や小説の批評は、多分普通にそれらを見てきていれば誰にでも出来る。その誰にでも出来る
行為が、他人からの流用でしかなく、そういう行為に内在する意味を付与出来なくてしかも結構な年齢の場合、
気味悪いので一旦戸塚ヨットスクール的なところに預けるのがいいのだと思う。
 私にはそういうきついところがあって、治さなきゃとも思うのだけれど、本人と話す機会があったら、
40過ぎの男でそこまで下らない存在なのに、生きてること自体が間違ってると自分で思えませんか、と
いう言い方をすることが明白で、それは実感として仕方ないのだった。会社員をしていれば、それなりの
仕事との兼ね合いで自分のことを考えているだろうが、その程度の歯止めもなく、批評だの表現だのは
基本的に他人の剽窃−しかも、盗聴とか盗撮みたいな出来事を称揚せざるを得ない−で、しかもそのこ
とに対する理論化も出来ないのなら、何を美点として生きてるか全く理解が出来ないし、そういう人間が
あたりの顔色を見ながら書き散らしている雑文に依拠している雑誌なんて、他の部分でどんな主張をして
いようがゴミとしての嵩しかない、と思う)。
 このブログに「小説らしきもの」を3つくらい書いているけれども、本当は全然文体が違ってなおかつ
書かれている状況も違い、そのことに納得出来るそれなりのボリュームがあるものをまとまったかたちで書き
たい。そんなことを考えながら、私は基本的には中途半端なのが嫌なのだ、と実感する。
 モダニスム文学の作家は、あたりまえのように色々な文体を使って、人間の精神のパラメトリカルな
変化をもとに作品を作るが、本当はそれが出来ないならものを書くことになんてさほどの意味はない)。

                     ♪
 今までLEDの照明に移行しているという実感があまりなかったのだけれども、ここに来て特に器具
交換するときには、一般のお家でもLEDが便利かな、と思う。何件かランプ交換が面倒なので、壁付けの
器具にして欲しいという相談を頂き、都度ブラケットを提案していた)。ダウンライトで便利なのは無電極
の電球という長寿命のものだったのだけれど、LEDでここまで値段が下がれば簡単に使えるなぁと思う。
(基本的には器具自体に組み込まれていて、10年ほど持つタイプのものが多いです)。特に内装と一緒に
照明器具交換される方には提案します。

                    ♪
 「おんな紋」と、谷川健一「神に追われて」という本を読み終わる。関西出身ではないので解らない
風習があり、南方出身ではないのでそこで斃れるわけに行かない超越的な出来事というものがある。それ
にしても、まともな民俗学者の書く文章は(柳田國男がそうしているように、「本当に上手く運ばないもの」
への経験的判断に基づく切断も含めて)、バランスが取れていて趣旨が明確だなぁと思う。

 山手の丘の上から少しづつ坂を下っていくときに、真っ白(というより、銀)になったマリン
タワーを見て、一瞬幻覚を見ているのではないか、と感じたことがあった(マリンタワーはけば
けばしい赤で、なおかつちょっと5,6歳の女のひとみたいな雰囲気があり、実際に無料で入れる二階
まで上がると、訳の分からない貝殻の風鈴とか、万華鏡とか、小引き出しのお土産ものとかがつめ
こまれていて、それくらいの年齢のひとが一生懸命隠したみたいだと思っていたのだけれど、新しい
その塔の中は、きれいな面と線、割り付けられた空間と上手にされた照明計画の、眩しくて柔らかい
光で満たされていた。ちゃんと年齢を重ねたのだ。何だかすごくまともに好きだ、と思い、これは
ずっと優しい、誇らしい感じの、全然自分の所有物ではなくてもそれらしく見えることのある塔だっ
たと思う。あのケーキみたいな展望台のかたちが好き。真っ赤に塗られていて、夜にグリーン色の
光をあたりに振りまいていた時の、空のちょっと不穏な感じも好きだったのだけれど。新しい
マリンタワーはすっきりしていた。頑張ってくださいと思う)。