魂の民俗学

久しぶりに、まともに読書。(全部読まなければいけない、と言うのは思い込みでなく、体系的に書いている人がいたら、本当は時間の赦す限りそうしたい。実際子供の頃は飽きずにそうしていたのだ。ウルフにしろブルトンにしろ。二十歳を過ぎたあとのベンヤミン以降、「読んでいるわたし」が読まれる、という妙な事態に巻き込まれて、本を読む事の意味が変わってしまったのだけれど)。
体系的に読んだ痕跡のない著者とかエッセイストの事を、大本の部分で殆んど信用していない。日本でデイヴィッド?チャーマーズの著書がどれだけ売れたのか知らないのだけれど(そしてこの本の幾つかの論点が大変難しいのだけれど)、この人はそれほどいい加減な人じゃないという気がするのは、やっぱり二万冊以上の書かれたものをもとに、意識というもののアーカイブをつくろうとしている点による。
それに引き換え、という話をするのは嫌なのだけれど、日本で起きた感覚についての掘り下げなりプロジェクトは、カルトの方法に依って個人の健康とか場所を脅かしている割に(それだけに、と言ったほうがいいのかもしれないけれど)、カルトの経済圏から出られていないような気がする。普通の感覚からすれば、やっぱりそんなものは相当に気分が悪いんじゃないか、と思う。

地名、というのもやっぱりアーカイブのひとつで、そこには心的構造と具体物の中間にあるようなものが反響するのだが(「コンブレー」とかもそう)、その事をあらためて本のなかに確認すると、衝撃を感じる。
「神社や地名が大切なのは、それが日本人の宗教的な情緒や美意識を喚起するためだけではない。それを辿れば、文書記録の届かない過去の姿が復元出来るからである。私は神社と地名、またそれに縁由をもつ古民族や伝承、この4つを組み合わせて、古代の鍛冶民族の足跡と信仰を追求した。」(自伝抄 海やまのあいだ)

「私の民俗学」と「魂の民俗学」でパラレルに書かれていることを確認しながら、ある種の批評が小林英雄的なものと言うよりは、民俗学の亜種みたいなつくりになっていた事、それらとメディアの接点で訳の分からない超常現象みたいなものが要請されていた事を思う(繰り返しになるが、その幾つかは別に何か神聖なものであると言うよりは、端的に人災のような監視の手法の濫用だったりする。川田亜子さんが悩んでいたのは、そういうものでもあったのではないか、と思う)。そういう流れを色調補正のように、オーソドックスな民俗学のほうにゆりもどしていく作業。ちゃんと考えたい。 「民俗知」なり「自然史」の領域に思考の起源が書き込まれているとすれば、メディアがそれをどう擬態しようと意味を見い出すべきではないのだが、メディアによる自然の擬態には、なにか悪性のもの、過度にアーティフィシャルで予め崩壊についての方向性が書き込まれたものが作用している。