位置と思考

 ラクー=ラバルトも電車内で読むのにあんまり向いていないなぁと思いながら、
でも何もしないよりはマシかも、と感じる。
 電車内で「潮」の車内広告を見ながら、以前創価学会の人に言われた、日本人の
4人に1人が学会員、というのは、あれは大嘘だったのだ、と思う。それからこの集団
の、具体的なことをするときのリミッタとしての性質も。
 ヘンな話、特に展望もないまま民間から個人情報を流用したり家の中を監視したり、
 洗脳したりする、山口組系の暴力団とつながりのある宗教団体…に、
 ノーベル賞が易々と出るわけが無いじゃないか、と思う。
 みんな薄々そのことに気づいていて、票を投じることを止めているのであれば、逆に
 セクト規正法的なものを強化して、普通に生活できることのありがたみを感じられる
 場所にしたほうが、暮らしやすい国になるようにも思う。

 というようなことを、ずばずば言えない世の中は相当歪んでいて、既にシュタージの
時のドイツとかと同等の政治的困難を強いられていると思うのだが、そういう抑圧が
文学や何らかのステイトメントを示す表現の主題になるのは、どれくらい経ってからな
のだろう、と思う。主題自体はとても重いが、それを視界に入れながら、同時に色々な
ものを汲み取っていた作品を幾つか思い浮かべる。今更ながら、文学者が一番偉い、この
世で最も健気なひとたちだ、という気がするのだった。


感性とか直感という言葉はそれだけでは陳腐なのだが、明らかにそれが何割か供出されている表現は違っていて(言い換えれば差異を孕んでいて)、その差異が精神現象と関わりながら現実をどう見せているかを突き詰める事が出来れば大変に面白いし、まあまあ、
という気がする。
 宗教的な抑圧下の幻想と自明性の対立を仔細に追っていくことも面白い。
 どちらにしろ小説のように肌理があること、私の意識の連続性が、その肌理の上に成り立っていること。