転倒

もらい物で感動するくらい履きやすかったmaccheronianのスニーカーhttp://store.shopping.yahoo.co.jp/kobe-foot-club/maccheroni.html
を、車の運転用として積んでおくことにする。これも車と同じくネイビーブルーで、やっぱり秋になると濃いブルーとかボルドー
たいな色とか、金茶色とか身に付けたくなるなぁと思う。

 けれど洗脳だの何だの言っているうちに化粧ノリというものが全く無くなってしまってびっくり。多分
内分泌によくないからなのだと思うが、これ結局どこにどう説明して直せばいいんだろう、と思う。決意して
決めていることがあって、心療内科には絶対かからないつもりなのだが(迷惑を掛けてくる他人の人格障害なんて
私がどうしても治らないからねぇ)、心理的に欠損させられている部分を何かで
充填しないとなぁ、と思う(特に、長いことほのめかしされることによって、近くのものにピントが合いづらくなって
いて、背筋のラインとかが歪みまくってるなぁと思う)。


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 ハイデガーヘルダーリンに関わるものを読むと、とりわけヘルダーリンについてなのだが、この頃の精神病(統合性失調=
精神分裂病)には薬理による寛解という概念が無かったのだなぁ、と思う。オーソドックスにランボーという人のきびきび
した、楽しくキラキラした感じが好きで、迂遠な感じのするヘルダーリンは「ヒュペーリオン」一冊しか読めなかった。ロマン主義的な情動と予見性
の過剰のなかで塔に幽閉されてしまった後半生をあらためて不穏なものとして思い浮かべる。
 この「予見性」という出来事は、特に神秘的なものでなく詩というジャンルの宿命だと思うのだけれど、それをしっかりフォー
マットしなければ、そのジャンルについての科学的発見にも文学的情景にも結びつかないでしょうと思う。それはあの創価学会
ヘンな詩、つまらない感じの詩とは全く別物なのだ。無理して電車の中でラクー=ラバルトを読みながら、政権交代後にそれらを
批判(精神操作的な方法も含めて、抑圧)する伸びしろでもう少しまともかましなところまでいけないか、と思う。久しぶりに
「転倒」という言葉に触れて、その図と地の反転みたいな感覚が必要なのだ、と感じる。

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