憑き物筋について

 仕事が終わって帰ってくるあいだに、色々と考え事。普段全然そういう風ではないのだが、どうして
もクラブの内装(特に照明計画)が好きなので、そのうち営業でも出来ないだろうか、と思う。
(あまりお金をかけずに、音の抜けがよいようにつくったりすることのほうが多いのだろうけれども)。

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 ちょっと前に読んだ速水保孝「憑きもの持ち迷信」・・・は、昭和28年が初版で
(当時の)鳩山内閣下で迷信に基づく差別を撤廃する必要性について長い前書きが書かれて
いるのだが、読みながらこういうことが問題になってた時代があったんだなぁ、と思うと
同時に、確かに差別問題に抵触するような話は、するほうもされるほうもしんどいのだけれど、
差別の原因になるような行動化がモロに盗聴とか盗撮とか痴漢のケチな犯罪の場合、やっぱり
一度はそういう筋の悪さについて思いめぐらすべきなんだろうなぁ、と思う。
 精神病の家系でもいわゆる「憑き物筋」でもないんだけれど、飛騨のほうの「牛蒡種」という
憑き物筋の家系について書かれた文章を読んで、ちょっと洒落にならない感じがする。というのも、
そういう人とか家系が在るかは別として、「牛蒡種の家系の人間が見て羨んだ田畑は枯れる」って。
こういう話を読んで都市部の人間は、普通に気味悪い、としか感じないし、それを何かの文化的な
契機と結びつけて潜勢力で社会を活性化するという試み自体(95年のテロとか9.11みたいな圧倒
的な何かが起こってしまった後では)、全然物足らない、飛距離不足のものなのだ。
(大体、この文章を書きながら「共同幻想論」のことを思い浮かべていたのだけれど、それが前提
としてたものさえ踏まえられることなく、だらだらされている精神世界的な議論が多すぎるんじゃ
ないかなぁ、と思う)。

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名目が「社会学」であれ「批評」であれ、この手合いの擬似民族学を「踏んだ」領域の作風には
近づかないほうがいい(実体として関わらないほうがいい)と思うし、どうせ読むのであれば擬
態でなくそういうものと関わった作家の作品にしたほうがいい、とも感じる。中上健次がそうだけれども。つくづく。