デリダを言う

 片道60Km×2を走る。でもこれくらいを行き来できるのが普通になっていくのだろうな、
と思う(東京のあのアンダーパスの多い道を走ることの、ちょっとドキドキする感じと
きたらなんだろう。わートンネルに潜る、と思ったあと、道が目の前に出てくる
と、ちょっと眩しい。肩こりとか頭痛でキンキンする身体に染みる感じなのだった)。


                 ♪
 デリダ「テレビのエコーグラフィー」最初の部分の、有用で言われるべきことがはっきり
 書かれている感じをどう活かすか、頭のなかでぐるぐると考える。

「・・・今日、自分の生きる時代〔時間〕を考えるということは、それについてことばを発する
時間そのものが人為的に生産されているという事実をいまだかつてなかったほどにはっきりと
確認することに他ならない。この話題について公的な発言をすることがリスクであるにせよチャンス
であるにせよ、それを自分が実際にやろうというのだから、なおさらこの事実を痛感することになる。
そこで流れる時間は、人工物である。そこに生じる出来事のただなかで、〔メディアで発言するという〕
この公的な振る舞いは、メディア装置によって計算され、強制され、「フォーマット」され、初期化されて
いる(駆け足で進めるためにこれらの語を使うことにしよう)このことは、殆ど無限といってもよい分析に
値する。予め公共空間へと、つまりひどく漠然と情報やコミュニケーションと呼ばれている遠隔テクノロジー
によって刻々と構造と内容が変形される政治的現在へと注意を向けていないようなものが、果たして今日自分の
時代について考えたりするだろうか、とりわけそれについて語ったりするだろうか」(ジャック・デリダ+ベルナール・スティグレール
「テレビのエコーグラフィー」)

 これを難解な文章だと思うことは多分欺瞞。実際に起きていることについての追究のように感じる。