通りで空を見上げていたら、鳥のような形の
雲がとろとろ流れていて面白い。庄野潤三さんが
亡くなってしまったと知ったのだけれど、環境と
心理とか、気象と心象の何がどこまで対応している
のか(何を対応し得るものとして視ているのか)を
相当遡ったところから考えなおしてみたいと思うの
だった(最後に読んだのは五年くらい前の「せきれい」
とか「うさぎのミミリー」だった)。

        ♪

 本当の統合失調の人は(私は目の前で完璧に調子を
崩されたことがあり、以来サブカルとかにインスパイア
されている唯の人格障害と病気の問題は全く別だと思って
いるのだが)「動いていないはずのものが動いていて安定
しない」というようなことを言う。私の場合はカーペット
とか置物がそうだったという話を聞いた。それは同じ時空間に居て
も脳の働きが違えば感じ取られることがないのだけれど、そ
れでも何となくそういう事もあり得る、と思えるのが大事な
ところ。実際心理的に柔軟な年齢であればそういう事が起き
ている閾と社会化された領域なんてそんなに隔たれていず
(それが隔たれていなかったのは、「学校」とか「世間」
みたいなものの抑圧を緩和出来る、エアポケットみたいな
部分に上手く嵌り込めたからかも知れないのだが)、実際
行き来するように感覚がわかり、別段同情的になるのでも
なく、「同じように全員が苦しい」=「この世自体が気休め
を欠いたところ」と感じていたのだった。
 でもそのなかで、超越的なものなり統覚を欠いたままでも
手を動かしたり内面を離れることでそこそこの場所まで自分を
駆り立てていける、という実感を得るのが、大体21とか2くらい
のことで、後は余生に過ぎないというタイプの人が、都心部には
相当居るような気がする。で、メディアを利用してアーティフィシャル
な精神病状態を強いられるというのは、あとで圧倒的に醒めることの遅い、
愚にもつかないものに付き合わされるという事でしかないのだ。
             ♪
 そんな事を考えてるうちに、藤田嗣治ゴーギャンも見損ねてしまった
のだが、クリムトは忘れず見に行かないと。