色々と

 メーカーさんにお話を聞いたり資料作成したり。秋なのですっきり涼しく、
衣替えして段々寒くなっていくのなんてすぐなのだろうなぁと感じる。
 
 ・・・繰り返しになるけれど、個人的に「エホバの証人」も「創価学会」も「統一教会」も、
そういうのに増強されないと自律出来ないサブカル系のライターも、疑似科学も、
興味がないというか実体として関わるつもりがない、という事を明記しておきます。
 そういうものから生活を不当に侵犯されている人が、日本にどれくらい居るのか分からない
が、元々宗教的に舞い上がりやすい人ならいざ知らず、面倒で係わり合いになりたくないと
思っているのにしつこく付きまとわれてる場合、どこかでひっくり返せるようにすべきだよね、
と思う。そういう問題に私情と妙な「文学性」抜きで即物的に関われる弁護士が増えればいいの
だろうけれども。「創価臭さ」というのは確かにあり、そうじゃないコミュニケーションがある
ことも感得するとものすごい耐え難い。世の中で潜在的にはこれほど嫌われてるにも関わらず、
そのことが「まだ」はっきりと言明されていない宗教って珍しいのではないかな、と思う。
(というのは、やっぱりすっきりしたインテリアとか、ものが有用に扱えることにどうしても
目を向けざるを得ないからで、仕事柄という気もする。何の衒いもなくそういう世界で生きてる
ひとが、やっぱり相当数居ることも確か)。

                  ♪
 ラクー=ラバルト「政治という虚構」を読む。ナチが問題になるとき
一緒に問題になるような、キッチュな感覚が割と苦手で鬱陶しいので、そういう
のがない分、しっかり読もうという気持ちになる。(という感想の何て雑なこと。
でも最近、キッチュなもの、経済性はともかく科学的意図において挫折してる超越
的なたくらみと、内実―自明で離人症的でも責任回避的でもない実感―に基づいた出来事
なり作品なりの力関係が解らなくなるのだ。力関係というより力動というか)。
 例えば、生きながらにして女性が解剖されたり、おもちゃのように洗脳されることは
キッチュだしナチっぽいのだけれど、何かがほんとうに起こるとき、目指されているのは
そんなものではない気がする。この「何かがほんとうに起こる」という言葉もいかがわしい
のだけれども。要は「志向性」みたいなものがあるとして、それが関連づけられている在り様
やものが、どういう質なのかを、もっとちゃんと解りたいのだ。
(これ読んでみよう、と思うhttp://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9970894056