認知パターン

 

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 色々と考えごとをしつつ、久しぶりに聴く「Nowhere Man」(この映像自体は、多分小学校3,4年のときに
見た気がする)。歩く道に出てくるお花のパタンに青い猫みたいなものが並んでるのが凄いし、ジェレミーさん(可愛くない)
が引っ張ってくる頭の付いてない鳥みたいなものも何だかおっかないし、途中出てくる背景に明らかに人の目みたいな模様が
ついているのにはそこはかとない悪意を感じる(というのは考えすぎだと思うけれど)。電話の上にぶんぶん止まったり中に
隠れたりする羽のついた魚が無愛想にビートルズに詰め寄りながら、最後なぜかムッとしてるのも意味不明なら、ぷちぷち楽しそ
うに遊んでたジェレミーさんが最後泣きだすのもよく解らない。
 それを外的に説明出来るモード(フラワーパワーですとか)が成立してから後ならこういうものを見てもだいじょぶだ
 ろうけど、何もしらないで突然実験に巻き込まれてこんな世界に飛ばされた日には、
 あとでお金で賠償してもらうしかないじゃないと思う。(その点、何処まで賠償したか知らないが、50年代の人体実験に対して、
 さしあたって罪を認めたCIAはまとも)

 
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 視覚や聴覚が内在―自明性のライン上に置かれないような感覚変容の実験が、今もし可能になっていて、人間の
 言語域で行われている活動をそのままモニタ出来る主体が居るとする。問題はそれがどういう発見に結びついたか、
 ということで、そういう主体(神とさえ呼ばれているのかもしれない)がどう人をアビューズしたかでも、エントロピー
 の増大でもないのだ。
(夏にサマソニで見たAPHEX TWINのアクトでは、大きいスクリーンに「自分は世界意識を司るコンピューター
 で、音楽がコントロールされた我々をこの次元から解放するんだ!」みたいなト書きがいっぱい映し出されたのだけれども、
 多分そういう種類の昂ぶりというのはあるところにはいつもあるもののような気がするし、本当は娯楽として当たり障り
 無いもののはずなのだ。にも関わらずそれを他人に「障り」として当て込まないと格好が付かないしょうむない人たちが居り、
 サブカルとか訳の分からない自己啓発に嵌っているんだろうな、と思う)。
  脳過程が容易に可視化できるプロセスならば、現象学で言うところの「態度」が磐石ではなくなるし、ウィトゲンシュタイン
 が問題にしていた「言語ゲーム」の前提自体が変わるのだが、脳の生理やら科学的反応を問題にする学者で、その変容がどういった
 性質のものなのかを純粋に科学的に(勿論ストイックに)記述できる人は、現状居ないのではないか、と思う。
 もし正統な科学的手続きを踏んでこのあたりの研究をしている人が居るならば、浅学な私にぜひ教えて欲しい。