身体的にも心理的にも

なんだか負担の掛かっていたものを、分節し直そうとしている、そういう時特有の体調の不安定さ。

備忘として。
夢の話で言えば、赤瀬川原平さんが秋山さと子さんとの対談の中で、幾つかのご自分の夢の話をし、身体性が機械に近しい事を「タイプライターと性交する夢の話」として披露されていた事を思い出す(これも、手元に本がないためにうろ覚えなのだが)。
たまたま昨日の午後に、昔あったシンガーのミシンを卓上型に直したものや、家のものが購入したオリベッティのタイプライターの事、古い工具箱のかたちと手直しされたスポークの目立つ自転車(居間に飾られていたのだった)、手に入れてとられてしまう中古の自転車についているかわいい鳳凰のマークの事を思い浮かべながら、そのくっきりした機械のイメージが自分にとってはいくばくかの救いだったのかもしれない、と思う。それは自我意識にしては人工的すぎ、そこに閉塞すれば人間味が希薄だと言われかねないかも知れないが、そういうものは確かにあり、デュシャンジャコメッティもごく愉しげにそれらの仲間だったように思えた。原風景だが、それがおしゃれすぎるともインテリアだった気もしない。労働者という人たちは他になにもないから移動の道具にこだわるのだ(自転車泥棒という映画があったと思う)。

すぐ気取りがどうとか言う、糸井の態度みたいなものに対する不愉快さは、でもそんなにマイナーなものではない気がする。何で片端から人の態度を掠めとったり、恥の強調ばかり横行させるメディア=田舎の基準で世の中を見なきゃいけないのか。しかもその中で性的な慰労が強いられてるとして、バカにしちゃいけない?