メディアとセクト

色々といぶかしく思いながら、ユングとパウリ共著の「自然現象と心の構造」を読む。自分がどれだけろくでもない目に遭っているのか、つくづくゾッとしたのだが、望まない神学的構成に生活が侵されたとき、何を排除して何を精神の構成上有用なものとして採用するか、というのは、すごく今日的なトピックなのかも知れない(ただ、後に書くが神経工学系の変な測量技術の乱用は、個人の個別の心構えで避けられる問題じゃなく、そういうものを管理する団体の姿勢とか倫理観にかかる。私は、このあたりの話をSFめいた話や、輪郭のあいまいな比喩表現の集積で終わらせたくない、と思うのだ)。
この本にいぶかしい思いをする、というのは、前半ユングの統計が殆んどESPとか共時性みたいな超常現象に割かれていて、いちいち最もらしいグラフと数値が書かれてはいるものの、実際にそれがどれくらい客観性のある現象だったかを裏付ける事が出来ないからなのだが、後半で自然現象の項を取り扱うパウリは、一応ノーベル賞を物理学分野でとっている正統的な科学者なのだ。物理的測量技術が人間の精神も一個の自然現象として取り扱い、それを可視化出来るとして、こういう人たちの先験がどう踏まえられるか、というのは気になるところなのだが、肝心の科学的主体は全くそういう動機で動いていないのかも知れない。自然科学の動機はともかくとして、ユングのいかがわしい神秘主義はそこそこ面白く読めてしまう感じがある(例えば死と動物のメタファーとか、偶然の一致みたいな出来事、何らかの婚姻関係にある人の属性を分類したものは、それが科学的に厳密かはともかくとして確かにこう考えている時があると思わせる。そういう場所にはアクセスしないので、これは全くの想像なのだが、韓国系のカルトとかではその妙に生々しい姻籍関係とか動物のメタフォリカルな死みたいなものを、記号として強調し、意味に絡めとっていくのではないか)

ユングのいかがわしさは殆んど「2012年に太陽の黒点の動きが活発化し、人類滅亡!」と同じというか、この本にはそんな事が書いてあるのだ。人間の思考が外部から読みとれるかどうか、というのが殆んど緩慢な議論に思えるくらい、いきなり電磁反応としての思考と共時性について語るユング。メタファーとしての天体と婚姻の関係を統計にしてグラフまで作るユング。ちょう怪しい、、、
そしてこの領域の科学が、なにかのカルトの儀礼に結びついてしまい、物理空間とか数学の語彙で練り込まれなかったのが、現在の意識の哲学における不幸のような気がするのだけど、ちゃんとクリアカットなかたちで物理学とか数学のなかで議論を展開出来たら面白いと思う(架橋になるのは、ユングじゃなくてラカン)。