Psycoid/老朽マンションの奇跡

 なかなか気分よく夕焼けの中を車で走りながら、年末は旅行先で朝永振一郎
パウリを読もう、と思う。風が吹いて、窓から見える空に近いところのライトが
ふいに降りてくるように間近に見えることがあり、その間を縫いながら走っている
と時空上に色々な事がプロットされているその仕方が、あまり情動に絡まずに展開
されていくように感じる(自分が居ない、と感じるのと、でも何かが自分の形跡を
はっきりと感じ取っているので、ここにこうしてある、と思うのと)。

 類心的構造、という意味になるPsycoid という言葉が好きで、それを
どれだけ色々な角度から読み替えてみようと思っていたか計り知れない。それで、
古いユダヤ教の形式にあるという、トラクタータの手法で、細かくて次の瞬間を孕んだ
小文を書き散らすことが、ある時期の私には誠実なことに思えていた(場所は殆どそういう
ものの集まりで出来ている)。


読みたいと思って購入した雑誌に、井形慶子さんという方の「老朽マンションの奇跡」という本のことが載っていた。これは本業がらみで読まなければいけない本なので、購入することにする。
築30年のマンション(足立区)に現地調査に行った時の事を思い出す。年代によって建て方も間取りの組み方も違う事を痛感しながら見ていた(とにかく今のマンションとは全く異質な感じ、としか言えない)。頑丈な事で有名なメーカーさんのキッチンが配置してあり、それはやっぱり30年使っても頑丈そうな感じに見えた。収納の多い空間に変わるのを見ながら、何となく入居する人がなんの気負いもなく(本当は自分の家なのだから、それが当たり前なのだが)、身体の疲れとか精神的な滞りを癒して過ごせるといいな、と感じた。
丁寧な生活を望んでいても、一部屋当然の権利のように手に入れた中で、放送利権がらみのトラブルや憎悪犯罪に巻き込まれて淡々と生活が踏みにじられている人も居るかもしれない、なんて考えなければいけないのは、端的に不気味である。一部屋とそこで過ごす自分の心理だけ自由なら、それだけで事足りる、と言い続けても、その程度の自由にさえ寛容になれないのか、しつこく個人情報を抜いた上で「丁寧な生活」の形骸だけ振りまくという、気味悪い老後の行き方も考える。
当たり前だが年代を問わず、まともな生活者にそんなのは居ないので、そういう気味のわるさに見込まれた自分に途方に暮れる事がある。