何か盗品の流出を眺めているような、変な高揚感を感じる。(この手の妙な高揚感は、おじさんが持ち回りで書いてるヘアメイクの人の騙りサイトにもあるのだが、落ち着けという感じなのだ。金と変革の幻想のためなら何でもする傾向左派の成れの果てというか。それが具体的にどういうインフラを使って人の生活を侵害するのか、とか、宗派とか本来もう少し自由であるべき芸術とか、メディアの機能とどう絡んでいるか、というのは、リアルタイムでもう少し考えられてもいいように思う。建前だけでも日本は独裁下の国でないのだから)。

お金を「現実界のようなもの」、変革の幻想を「想像界」に当てはめてみると相変わらずラカンを読むのが面白くなるのだが、前者の外傷性を覆い隠しながら展開される後者の形質は、ヒステリーとかトレマの不快(=享楽)で満たされていて、何処かで実体のある生活に対して間尺の合わないものとして固定される。科学的主観のすべき事は、そういうものの無自覚さを言葉や現象や理論に置き換えていく作業なのだが、人から問いをもたらされても、何故か当の科学的主体はそれに応じる素振りさえ見せないのだ。なんか変、と思う。