アバター

待ち合わせをして空いている映画館で「アバター」を見る。フィラメントみたいに精神的なものが瞬いている神経系だけの存在になりたい、とか、それが疎外論的に外部の汚されてない環境で暮らしている、というのは、凄くあり得る考え方なのだろうなと思う。肌の色が鯖の肌みたいで森に住んでるのも、人間の脳神経と同じ組成の大きい木が生えているのも、何となくあり(シルヴァーバーグのSFみたいだと思う)。コリン ウィルソンが制作に関わっているんだなぁ、と思う。3Dではなかったにしろ、あんまり画面がきれいで出てくる動物の造形も面白かったので、
結構わくわくしながら見る。3時間の上映時間を全然長く感じない。
 神経組織の同調によって自分に外在するものを操作する、というのは、もうSF上の設定ではなく、実際に行われている出来事なのだが、その事が空想も突拍子のなさも権力も孕まない、本当に先端部分から考える、ということだけがなかなか出来ない(脳過程は外化しない、と言ったウィトゲンシュタインが、薬理的手段やコンピューターの使用により外化する脳過程を確認し、それが再度異種間のコミュニケーションや言語の発達に反映された場合どうなるか・・・みたいなところを出発点として、出来るだけつまらないことにとらわれず考えたい、という感覚がある)。そうむやみやたらと使って赦されるものだとも思えないその技術を、ヘンな企業だのエキセントリックな団体が私欲のために使うことがあり、大体そのエキセントリシティに凄い気持ちの悪い思いをさせられる。
 というようなことを繰り返し書いているのだが、それにしても中国で土地徴収に対する反感を煽る可能性があるので、この映画が上映
禁止になる可能性がある、というのは、凄い話だなぁと思う。上映中止の真似事しかない日本と全く感覚が違っていて、検閲や統制はあくまでもそういうものなのだろうし、それで統制しきれない部分もまた膨大な量があるのだろうと想像する。
 国対表現、ということにはならないだろうけど、ミクロな部分では抑圧に対する抵抗とその隠蔽という事が繰り返し起きているわけで、その
中で、例えば創価学会からの嫌がらせ被害者と加害者の位置や立場が画定してしまい、かたや神経の摩耗や生活の場所の縮小に悩まされてしまうというのは本当に困る。そもそも筋違いの抑圧や、脳にリミッタが作られてしまうような出来事は全部困るという気がする。