通勤の電車のなかで「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」を読む(新刊で翻訳が出たものが欲しかったが、手元で読めるため文庫にする。立ち寄った書店で、手放した「サイキス タスク」を見かけ、つい購入してしまう)。
宗教についてなんてイレギュラーな状態にならないと考えないし、今の今までこの本のタイトルだけは知っていても、読もうと思ったことがなかった。電車の中で読むのに向いているか解らない。新興宗教であれ(プロテスタントだってカトリシズムに対する新興に他ならないのだ)、伝統宗教であれ、お金を稼ぐときの態度に何らかの信念体系が作用するのは当然の事だ、という当たり前すぎる事を感じる(ある種の信念の悪達者で必死な感じから、傷つけられたり損なわれているという感覚が、「被害妄想」なんてあり得るのか)。
意味がとれるようになってから、ゆっくり読もうと思う。
暫く前に出先で、車をとめた先にあった教会に韓国人礼拝枠があったり、駐車場の出口に統一協会の事務所があったりし、そういうネットワークが張り出していることが人のありよう(これは、精神と身体の両方)に影響してるとすれば、その変容について思考する必要がある、と思う。ともあれまともに打ち合わせしたり、身体を伸ばして日記をつけたりしている時の心情からすれば、そういうネットワークの生臭さは嫌なもので、ちょっとだけ以前見たグリューネヴァルトのキツい絵を思い出す。
(質素と倹約、というのは、もし宗教が自己規定するとなるとそれほどいかがわしくも醜くもない規範だが、キリストの受苦性の上に被さっている色合いが何となく疫学的に不吉)

すごく久しぶりに、ゲルマニウム温浴をして手足の先を温める。コンスタントに岩盤浴に通おうかなぁ、とも思う。

高値がつき遠ざかっていった「歩く男」と、自分が造った「そくせき歩く男くん」を見比べながら、やっぱりコピーに対するオリジナルなもの、そう考えざるを得なかった事柄の価値、というのはあるなぁ、と思う。ある信仰体系下で、それがどう踏みにじられるのか。

金属で出来た小さいネックレスのようなものが、景色から突き出て瞬いている。雲のかけらが黒い空の中で幾つか溶けるように見え、光る金属組織の突出を受け止めているが、全体からこぼれおちる円い光の量は目減りせず、雲に隠れて見えないところで嵩をますようにも思える。