たまに何かのイメージ画像で、水が落ちた部分が冠状の跳ね返りになっているものがあるが、実際水くらいの粘度しかない液体ではそうならないだろうという事を再三考えたり、感じたりする。2日ほど前に、何だか読みたくなってゲオルグ ビュヒナーの文庫を購入し、もう12年ぶりくらいに「レンツ」という話を読んだ(というか、レンツという人の生態に触れた)。そのせいもあるかも知れない。以前はドゥルーズ=ガタリが書いているので関心があって、この文庫ではないものを手に取ったのだが、一読してさすがにこれは気まずいわ、というくらい、レンツには俗世的な欲がないのだった。ひたすら神学と自然にまみれている感じ(確かドゥルーズ=ガタリは、脱領土化とか反精神分析がなんたらの関係で、レンツをキリスト教の神から切断し、それって凄くフランスの現代思想的だと思うのだが、この小説だけ読むと相当きてるキリスト教徒)。
何かの宗教(私は何度もこの言葉を使うけど、その実どれだけ実感を欠いていることか)による開眼の果てに、そんな状態になるのと並行して、ほんとは恐ろしく卑俗な部分(それは憎悪とか金銭欲、性とか猜疑心、優しさ、なんであれとにかく人間的な執着だ)が亢進する、それは当然の事であり、あとは所属している宗派がその事に対するお膳立てをするか、しないかだけの話なのだと思う。そういったお膳立ての下位でしか自分の欲求が叶えられない事を不潔に思う人はそれなりに沢山居るし、ほとんどその自覚だけが、清浄でも不浄でもなく、幸福すぎも不幸すぎもしない単なる自明な感覚を構成する。というより、それが守備よく構成出来れば、それは希望ということだろうという気がする。