old fashioned 戯画 とか 自壊

ブロッサム ディアリーを聴いたりしながら過ごす。

旧い時代のポーズとされているものには、当たり前のことだが戯画的なもの、時間が経つにつれ自壊していくものが込められていて、多分フィッツゼラルドも三島由紀夫もそんなものを感じさせずにいないのだけれど、ポピュラーで支配的なものが実はいちばん(多分戦略的に)旧態依然としているのだ。これはカルトについての表現なのだが。
そういうものとドロドロ渡り合うときに、余裕を見せろ、みたいな物言いは究極的には残酷にすぎる気がする。持ち出されたりスポイルされているのが初めから悪くも何もない、表現や表出の問題なんて抱えていない周辺の人だったりものだったりする場合に、ある種のアナクロニスティックな精神性をなぞることによってもたらされる戯画感や自壊感を言ってみてもはじまらない。単にその部分が修復されればいいだけなのだが、どのみち余裕のない状態でカルトの直情性に感化させられ、その上に胡座をかいてあれこれ人の所有関係にひびを入れてくる人たちが敵にまわれば、それを自然にする事が思いの他難しいのかも知れないと思う。 いちばん嫌なのは大時代的で直情に訴えかけ、粗野で面白みのある発想を持たない人がこちらの生活のいくばくかを勝手に占有する場合なのだが、それも幾つかの法哲学によってまともに批判することが出来るように思う。問題は現行の法制度が、まるで事態に追い付かない事なのだ。