出先で運転をしながら、家の何処かに石子順造の「キッチュ論」が、多分紐を掛けた状態で転がしてあるはずで、何となくその事をずっと考えていた。というのも(もし仮にこの一文がその私大講師の方の目に触れる事があったらかなりネガティヴなのだが)、精神分裂病と宗教を巡ってこちらが立てた仮説を病人呼ばわりされてイラッとした際、瞬間的に石子順造かなんかにインスパイアされた人、という印象をその方に対して持ち、何となく楽な在り方のような気がした(60年代の政治的状況も80年代の面白主義みたいなものも対応物がなく、というよりは単なる一情報に過ぎなくなっているなかで、そういうものを教える立場を篩に掛けるために、物凄くラディカルにセクトに頼ってる人たちが居るんじゃないですか、みたいな事を、私は割と嫌な女なのでしつこく本人に言うだろうし、大体鼻で笑ったりする)。

アクチュアルでないものというか、現実に実効性のないものをとことん嫌っているんだよな私、と思う。ある種の大きな新興宗教が政治と文化を通じて人の精神生活に影響を及ぼしている、その影響のかたちの一つに無理強いの洗脳や物理的な情報遮断という方法があり、法の目をかいくぐるが、デリダブランショが言う法ではどうか解らない(むしろ割とくっきり事態を言い表せそうにも思う)、みんな内心そんな宗派の性質を下らないと感じているのだが、物騒な事件も幾つか起きたこともあって声高にバカ呼ばわりされる事もない、という状況の、涙ぐましさと下らなさには人を笑わせるものがある(何が「そうかぁ」なんだ、と言うか)。
それに依存して文化生産を行ってきた人間の、繰り返しになるが晩年が恥と汚名にまみれる事を祈るばかり、というか、この期に及んで、明らかに要らないとしか感じられないものが沢山あるじゃないの、と思う。商品に取ってつけたように付されたコピーだの、どうでもよいかどっちでもよいような映画や文学についての印象批判だの。それらを再生産するためにだけあるメディアなんかはなから存在しないように振る舞うとして、初めて当の文学や映画のどうでもよくなさが際立つというのは緩慢な気がする。

仕事に必要な幾つかの登録(メールで連絡を取ったら真っ当な返信をすぐに頂く)を確認した上で、まあでもこの手の下らなさが自分の本質と結びついていない事は救い、と思う。