なるほど

行き掛かり上ずっと気になっていた、茂木健一郎 斉藤環往復書簡の、解答をじっくり読む。二回。それから移動しながら自由連想的に色々な事を考えていた(あっ、話が文学→精神分析量子力学と移動して、このまま出会い損ねみたいな様相を造りだすのか、と思ったのだが、そんなに嫌な話でもなく、はじめて複雑系の議論も朝永振一郎の名前も出てきた。よかった)。私は、それは見方によっては凄く皮相かも知れないけれど、精神分析には患者がおり症候が置かれること、それから量子力学には患者という概念がない(たぶん。量子力学患者、という人がいたら物騒な気もする)、という事を考えていた。実際はチューリングがそうだったみたいに、科学者の汎用性がたかく展性を持つシステムや論理は、背後に病理や(誤解されるかも知れない表現だが)傷や誤作動の感覚を隠しもっていることがある。それはシステムとか数式の羅列の上には書き込まれないが、やっぱりチューリングという人と一緒に作動していたのだ。
複雑系についても何冊か入門書を読んでやめてしまったのだが(それで、自立したらゆっくり読もうと思っていた)、その感覚の背後にあるホーリスムは多分、色々な迷妄を引き込むアトラクタの中心みたいなものも同時に穿っていったような気がする。ただそういうものにつまづく前に、やっぱり現実は良い方に動こうとしており、そこには綺麗な図形のようなものが沢山瞬いている、と思えたのも確か。(この項、今日は本当に思いつき)