現実界と偶有性

パラフレーズしてみたときに、この2つがまずまず同じものをさすとする(ラカン現実界のタームを知るためには、wikipediaの項目を読むだけでも十分、解るのだと思う)。ラカニアンだって言語以前のものという感覚を所有していない訳ではなく、ただその触れ得なさを厳格に社会化された我の外側に配置しているだけなのだと思う(これは多分、狂人と言われている人たちが現実界を言葉の中に書き落とそうとして頻繁に誤作動し、そのまま分析家に転移する事が脅威だからだけれども。精神分析は諸刃の刃で、その脅威やリスクを完璧に自覚した上で適度にわかったふりをする技術みたいなものなのではないか、と推測する)。
それで、いろんな言い方で想定される言語発生以前の状態を巡って、文学なり心理学なり量子力学がどんな風に振る舞うか、が、解りあえるか離反しあうかの肝だと思うのだが、「解る」も「理解する」もなく科学って最初からもっと概観するもののはずでしょう、という気がするのだ。人間が普通そうするように。
日常的な考えが保てている限り問題なく遂行されるような、そういう科学的な見方考え方が、2003年頃の色々な政治的どさくさの中で下らない事を断定してきた人たちのせいで、ジャーゴンとか迷信にまみれたままなのだと思う(内田樹先生が小泉政権の特性をアメリカにひどいことをしたから人気が出た政権、と形容していたが、デタラメな見解をまずがなって多数を動員しておいて、その実なにも具体的な貢献をしていない、というスタイルを上手く利用して、愚にもつかない本の部数を出すという方法を定着させてきたのは、内田先生や養老孟司みたいな人たちなんだからたちが悪いよね、と思う。皆おそらく実際に顔付き合わせてみたら、鼻持ちならない醜悪なじいさんというか、昆虫みたいな存在なのだろうなと思う。そこに四十半ばから五十前半位の、質のものすごく悪い疎外論者が続く。「風の旅人」の編集長みたいな。この人たちもまるで自分の関わらなくてすむものとして無視出来ればそれに越したことはないのだが、お家芸は普通の生活感情の破壊なのだ。私は、物凄く気味悪いの、という気がする。ノーベル賞も、実感のある感情も、意識の解明も、広告戦略でどうにかなると思ってる人たち。救いようがないくらい下らない存在。