1Q84 続編

打ち合わせを終えて帰ってくる道すがら、ワイパーを替えておいて良かった、と思うのだが、タイヤの前後交換もしないといけない。

1Q84 の続編をどのタイミングで読もうか、と思う。現実は1Q84に書かれていることより異常だったり妙だったりするが、小説で提示されないと自分が属している時間の心理的な制約が解らなかったりするものなのだ。

解らないが、風の旅人の編集長がブログを更新しており、ちょっとごめんなさい、という気持ちになる。私がここに書いた事と関係あると思うのは僭越かも知れないのだが。
(例えば「意識の謎を解く」というのは、どんな技術があろうと日本の広告代理店やメディアが先導して、10年位で出来る事ではないような気がするのだが、一度本の売上で力関係が決まると色々な無理が強いられるだろうし、ストレスもたまるだろうなという気持ちになる。たまたまニュースサイトでランボーの商人時代の写真が新しく発見された、という記事を見かけたのだが、そんな時、何となく嬉しく思うのは芸術のお陰で、ただ内在的で本来人がどう感じようと関係がない)。

森村泰昌さんの事について触れられているが、私が一番初めに買った現代美術の作品集って「着せ替え人間第1号」であり、刊行前に近所の大手書店で予約して入手した時の事をすごくはっきりと覚えている。 その本の巻末に何故か島尾敏雄の「夢のなかでの日常」についての論文がついており、難しいのだけれども読みごたえがあったことも、その後SPA! から派生したPANJAという雑誌に「女優降臨」が連載されていてスクラップにして取っておいていた事も、「レンブラントの部屋」の事も、「太陽」か何かの現代美術特集で、「太陽の塔は猫背で可愛い」と書いておられた事も、ほとんどまだら呆けみたいに覚えているのだった(太陽の塔については、確かにそんな感じだった)。
ポストモダンとか、自己同一性の軽やかな否定、みたいな批評の言葉が目の届くところにあり、まだ宗教の反動も、単なる幼児虐待みたいなものも、自己啓発セミナーみたいなものの何考えているなさっぱり解らないノリも、現実を浸食し過ぎてはいなかった頃、と記憶している。
せっかくなので森村泰昌さんについてもう少し書こう。私、創価の嫌がらせに遭っていなければ、かなりしっかりと森村さんの美術展を見て廻っていたはずだ(あの「夢のなかでの日常」についての文章は衝撃的で、以降本も全て、基本的には追体験すべきものという考えが頭を占めており、私は2年だけ限定でベンヤミンを読んだ後はオイディウスの「変身物語」を全てモダンにリライトするつもりでいた)。テクストをまとめようと思って転居した先で、個人情報を勝手に流用されながら仕事をしていたため、何となく美術展どころではなくなってしまい、多分原美術館での作品を最後に何も見ていない。私は、風の旅人の編集部にほんの少しだけいたKさんと、その頃の仕事場で私の個人情報が勝手に閲覧されている話をしていたら、次の日にKさんの事もまとめて職場に伝わっていた時のゾッとする感覚にどうにか決着をつけたいと思っている。
私もKさんもオヤジ受けする話中心で芸術だの何だのを考えるたちじゃないので、恐らく訳の解らない申し合わせで女写真家とかが選別される雑誌業界だの、ブローカーかホステスみたいな立場を強いられるような感じだのが性に合わなかったのだろう、と推測する。 それで、軽蔑していたのは、出版業界でグラフ誌を出すときに売れ筋の作家だの美術家におもねなければ成り立たないのは分かるが、そういった人たちのロジックのたたなさやパクり癖に対する自浄作用のなさが鼻についたからなのだった。そこに自分の身が刻みこまれながらパクられたりするのは、はっきり気持ちがわるくおぞましい体験だった。