とって付けたような敬意

 は、ひと(自分)を疲れさせるだけの気もするので、例えば「共同幻想論」の何が、今読んでも面白い
だろうと思うのかをメモしてみる(それはたどたどしい)。手元に本はないが、たぶんその本
を読んだときのイメージは残っている。
 家族(という対幻想のかたまり)の、空間的な拡大に耐えられるのは、姉-弟とか、兄-妹といった組み
あわせである、と書かれていた気がする。それは確かに、ロマンティシズムに満ちた考えで真偽は分からない。ある
時期そういう考えかたは軽視されるか踏みにじられた。戻ってきたのは、そういうものの呪縛により現状を変えよう
とか、そういうものの「萌え要素」みたいな感じだったんじゃないか、と推測する。(それがいいことか悪いことか
はよく分からない)。もう少し単に文学よりの話にはなるが、もし対幻想の温床である父-母という組み合わせが、比較
的難しく運営されている家族があったとして、何となくその子どもの男-女は、親同士のレシプロックな幻想から無傷で
あって欲しい(少なくとも、幻想が変にヒットして自分を損ねたり、周囲を損ねたりしないで欲しい)と願う心理が(普遍的に)あるような気がする(そうじゃない場合の破綻が「事件」と呼ばれていて、それはおおむね大変だからだけれど)。

                        ♪
 森村泰昌さんの作品集を買いに行ったころ、私の関心事は、たぶん「自分の外側に出ること」だった。
(そういう考えが馬鹿げているという、有り体な世間にあわせた分別はあるんだけれど、それがどうしても
納得出来ないような。簡単に言えば絵を見るなり本を読むなりしている時に、もう少し自由だと面白い、という
気がしていた。自意識の重さ、とかいう類のものではない。そんなものは多分陰湿な土地柄とか最初から転移共同
性と後ろめたさで限定された場所にしかなく、「ここ」はそうでもなかったのだ。そうでもないくせに、単に人も
自分もめちゃくちゃに不自由な気がした)。