森村泰昌展

写真美術館に行ってみる事にする。
(どうでもよいけど「リビエール」の続きが何となく書きづらくなってしまったのだが、私はこの話の続きがとても読みたいのだ。車の中で急に「私たちは 食事を作っているだけなのにある日突然 この子供に形而上みたいなものがめばえるのを知る。歯が生えるみたいに。教えていないのにそんな風なのはいいねぇ、得をした」という一文が思い浮かんだ。書きはじめの頃に「河明かり」の岡本かの子とか、Waterloo sunset の事などが綴れ織り的に浮かんできていたのだが。

写真美術館に(よく友人と映画を見にきてた事思い出す)。写真を撮る人はここに来る、という感じ。
あれこれ考える前に、私にはこの以前つくられた特異なシーンの中に居る、という事がすごく良い事のように映っていたことを感じる(森村泰昌さんのローズ セラヴィとデュシャンが好きなのだ)。作品展に行くとその、どうしてもそれを試してみたかった、というのがわかり、それは幸福という事なのだ。(シンプルに芸術って好きで媒介しているものの強さと、自分がその媒体にならざるを得なかったことの必然性の組み合わせで出来てる、と思う)。
見ながら男の人は戦乱がないときに頭で戦争をシミュレーションするし、それは外傷性が高いがやめにくい行動なのだろう、と思う。最近の噛み合わない会話を一つ思い出しており、その中に「人間志士だからいつ死んでもよい、自分の子供に幕末の志士のように死ね、と言った」「でも今戦争中じゃないでしょ、そんなの絶対ダメですし暗殺とかもダメです」というものがあった事を思い出す(それは、排中律のようにアートの外側にある、やっぱり強烈なものを媒介してる景色だった)。
坂本龍馬にコスプレしたあと、事業が失敗したか総好かんに遭った人の龍馬のコスプレ、というものがある、という事も唐突に思い出す(そこそこ経済的に成功した龍馬、というのも居るはず)