それにしてもガーデンプレイスの周辺独特よね、と思う。昔遊びに来てた時にすごくとりとめのない話をいつまでもしていたはずなのだが(いま考えると観念小説のなかの旧制高校の人たちの会話、というのがそれに近かったんじゃないか「写真と幽霊」とか)、当たり前だけどそれが国家的なものとか民族的なものと対立する必要も理由もないと思っていたのに、そうでもなかったというのが。

内田樹先生が何となくご衰弱ぎみ(というか、誰かに指摘されたのか「自分も悪い」という今まで無い語法と、相変わらずの若年憎悪に柔軟性がないのとに現れてる。「こいつら棄てていいですか」はないでしょ企業の人事の人に対して)なので書くが、消費者としての主観をぐだぐだ長引かせていつまでも成熟しない、って100%お前らの事じゃないの、と思う。だってそうでしょう。私はいま本気で理解に苦しんでおり、その悩みが普通に仕事をしながらずっとこの人たちから生活に干渉され、面倒臭いのでこっちも同調しようと試みたり、あんまりにも筋の通らないパクりなので仕事で還元するかと思えばそうでもなく、しかも逆切れで企業の人事担当に暴言を吐くような奴が普通の若者の他愛ない自己成就をひたすら妨害してるのだ。20代はじめから30代半ば位までなんて「他人と差別化するための消費に拘る」といったって、この人たちみたいにバブルの頃の晴らせなかった怨念を解消するみたいな無茶をしたがっている訳でも何でもないけどね、と思う。だから棄てるとすれば、企業の人事に「こいつら棄てていいですかと思ってるでしょ」とか、就活してる女子学生に「上手くいかない」とか言うこの手のおっさんを廃棄すればいいのだと思う。上海万博なんか比較にならない位オリジナリティが何もないというか、本当にパクりばっかりなのだから。
 ここまで書いていて気づいたのだけれど、これは、愚直にアブジェクションなんだと思う。「棄てる棄てない」と
いうのも、母性の空虚さみたいなものについてのお話も。20前後くらいの女の人とか男の人同士は、わりとそういう
ものをうまく避けて絵を見たりしていた気がして、その時一旦成熟していたように思えたのだ。
(車に乗りながら、母性と母体の重ならなさみたいなことを取りとめもなく考えていたのだけれども-これは別に私
がどうというのではなく、一般的な話として-どこかで<母>としての身体にだけ備わっているような媒介性を外界に
見たり感じたりするとき安らぐ、というのはあるような気がする)。

ついyoutubeピンクフラミンゴを見るのだが、なんというか80年代っぽい消費的な感覚に違和感があるのと、こういう悪趣味さ(犬のフンを口に入れるみたいな)も消費されるとしたら90年代だったんじゃないかという気がして、何かすごくそぐわなさを感じる。ディバインうざい。何かいちいちうざい。