脳を電磁場として提供できるか

 「量子力学と私」を少しだけ眺める。(というのは、やっぱり数式に
ついて書いてある場所に取り組めない)。シュレーディンガーの「数式」
について詳しく要約して書いてあり、量子力学の黎明期にはこれがみん
な手探りだった、と知ると胸に迫るものがある(なんとなく女もちのところ
があるきれいで読みやすい文章なので、日記を中心に読み返す感じで、
ああいい文章だなぁ、と思うところがしょっちゅうある。ひらがなが多い)。
 ウィトゲンシュタインの日記もそうだが、気候のことや自然現象について
書かれている地の文を、「そのころ」のものだったのだと興味深く読む。
当たり前だがそれらは科学的概観ではない。けれど、過度に衒った文学的
主観でもない気がする。呪物にまみれた雨乞いの文体の文体ともちょっと
違うような気がする(ムージルの小説がモダンなのと同じで、モダンな感じ
はする。解明された自然現象としての「天候」を、素朴には受け止めていない
感じ)。

                ♪

 もし意識に「科学」というものがあるとすれば、それを何のスケールに従って
切り取っているのかをまず明らかにした上で、1900年代との相違といろんな宗教
(それはたとえばニューエイジ思想みたいなものも含まれる)との違いを記述し、
感覚-質ならそれをどう見ているのかを科学のスケールに従って書きあらわさなければ
いけないはずで、そこをいつまでもごまかされている「感覚-質の科学」は、科学
ではない(ここから延々愚痴になってしまうとまるで発展性がないので、話をもう
少し進める)。私は大脳生理学というものに関心があまりなく、当然解剖学的に
それにあたったこともないのだが(具体的に言うと、たとえば脳の「可塑性」という
現象を、神経の動きを視るような方法で視たことがない)、ここに一群の大脳生理学から始まってヒトの
「感覚-質」を解き明かそうとしている「科学者」が居るとする。その人
たちに、自分の脳の内容(神経反応とか、言語域や視像の領域で起きていることの解析)
をどこまで供出するかということなのだが。ある種のひとたちにとって問題になっている
のは、その供出の場所が大脳生理学の場なり科学の実験室ではなくて、自然現象の中にずれ
込んでいたり、それまでの自我の生成点を無理やり削除して、自分の生活領域自体が一種の
「拡散」として取り扱われている、ということなのではないか、と思う(いきなりそんなこ
とをされたら病気になるし、自我が勝手に取り払われるタイプの言述-分裂生成する言葉-み
たいなものに、私はあんまり関心がない。ドゥルーズ=ガタリの自由間接話法とかもそうだけ
れど、それを文化的潜勢力として取り扱う自信が今はないというか。ドゥルーズガタリも故人
なので、この人たちの思想をアクチュアルに読み替えた場合そういうことが起こりえるのか
よくわからない)。
 実際、量子力学について言及されたテクストを読んでいると、脳という場も自然界が電磁場と
して取り扱える程度には電磁場として扱えるとしか思えない記述がある。ただ、それを大っぴら
に表明すると、何故か狂人だとみなされる仕組みになっておりえげつないのだが、このあたり
「何が出来て」「何がわかるのか」をクリアに割り切っていかなければいけないのじゃないかと
思う(少なくとも科学的でありたいのならば)。どんな方法であれ一旦自我感がなくなるような
オペレーションを人間の意識に施すと、それは大量の迷妄とか症候の増幅になって現れるから
だ。というか、これ、はっきり人権侵害なんじゃないか、と思う。ただ私としては、もしそういう
オペレーションを施す科学的主体なり一企業が、そこそこ「話せる」ものだったら、条件付きで自分の
思考や脳の神経的な反応を提供したい、という思いがある。それでダイナミックに「意識の科学」が
動くとしたら面白いからだ(本当は、ユングみたいな心理学者と量子力学者とか自然科学者の違いをち
ゃんと読み取って、オペレーションが心的構造を動かすのか時-空みたいな現象を動かすのかを、テクス
トに準拠して追うだけでも細かい作業のはずなのだが、そういうことを大脳生理学者なり科学者が殆ど
ネグっているのはどういう訳なのだろう。大雑把だ、と思う)。
ちなみに、以前タイトルを書いたユングとパウリの往復書簡の「自然現象と心の構造」は、そういう作業のとっかかりになるという意味で重要な本だ。そこにシュレーディンガー複雑系だの、適宜読み足していって都度見解を表すというのが、別段その専門家として名前が知られてる訳でなくても、この問題にあたった人間のしたい事だと思う。
それで、大雑把は敵だし、その時の気分に合わない「文学」は必要がないのだ。だから、この2つの姿勢をなんの反省もなく生き過ごしている科学的主体に、自分の脳やら心理を触られる訳にはいかない。そういう態度を許容してる後ろ楯の宗派が女の人の情愛みたいなものを何か気恥ずかしく翻案して、格安で使い放題にさせてるとすれば尚更の事である(これは創価の事を言ってるんだけど)。