「精神と物質」

 読み終わる。前半でショーペンハウエルの哲学とか、生化学みたいなことが
書かれており、全体主義とか、自我と客体の分化、宗教と科学についても書いて
ある(前半の方が存在論的で科学で包括しきれないことについて触れられている感じ)。
だが、6章の「感覚的性質の不思議」というところで、シュレーディンガーは自分が実際
に取り組んでいた測色理論に基づいて、感覚と知覚の結びつきをすごくさくっと概観するのだ
(書き足すと概観したところで、それが<感覚>をどう限定しているかわからないから不思議
だと言っているのだけれども)。
音についても科学の記述というものが何なのか、を概観するのだが、この歯切れの
よさがないと科学知ではないんじゃないか、と思う(というか、無理でもこの歯切れのよさ
から始めたい、と思わない限り、科学的になんてなり得ないんじゃないかというか)。
 そして改めて、1900年前後のウィーンって、こういう問題(物理学と意識)についての
問題提起が出揃った場所だったのだ、と感じる。普通に社会生活しながら、宗教だのなんらかの
利害のバイアスなしに、その場に立ち戻って何かを考えてみたいと思うとき、たまたまいま「科学的
主体」だと思われているものの傾向なんてまるで関係がないように思うのだけれども、そんな自由も
ないのかと思うと本当にびっくりする。
 シュレーディンガーから複雑系へのラインをちゃんと読めたら面白いと思うし、朝永振一郎(難しい
のでそれなりに孤独なときじゃないと理解出来ない)の理論もそれにかかっているところがあるように
思うのだけれども、本来ならそれを取り扱うはずの科学理論が科学的考察をものすごくネグるのはどうして
なのか、理解に苦しむ。(そして、こういう本を内在的に理解しようと思っているときに、脳はオープン
なものなので<理解>を促進するためにはこう読め、というような横槍が入るのは、すごく不気味なことだ)。

                     ♪
 「科学的な理論は、私たちが観察や実験で発見した事柄を概観するのに役立ちます。科学者は誰でも、
諸々の事実につきまして、それをまとめたなんらかの理論的な描像ができあがるまでは、かなり多量な
事実を頭に納めておくのがなんと困難なことかよく知っています。従いまして、次のことはちょっとした
驚きでありますが、しかし元の論文を書いた著者が決して責められてはならないことであります。論理的
で首尾一貫した理論が出来上がってからは、著者たちは、発見された元の事実や、読者に伝えたいそのまま
の事実については記さずに、これらの事実をその理論や他の理論の学術用語の中に覆いくるんでしまうので
あります。このようなやり方は、うまく順序立てられたパターンとして事実を記録しておくのに有用なの
ですが、実際の観察と、それを基にして築いた理論との区別を消し去ってしまうことになるでしょう。観察
された事柄は、常に感覚的な性質に依存しているものですから、理論はこのような感覚的性質を説明
してくれると安易に考えてしまうのです。しかしながら、理論は決して感覚的性質を説明するものでは
ありません」(「精神と物質」)。
 
 この頃の量子力学と電磁場の研究に「ヒト」はとりあえず絡んでいないのだが、今はっきりと個別の<意識> 
を解体したり解析するカタチでこの手の研究が進められている気がする。けれど、まず科学的に概観されてい
る感じがない(「意識の科学」から「心の哲学」に転向しなければいけない、という点も含めて、こんなの
薬理とか解剖的手段ですぐ解るようなことでも何でもない気がする)。観察の被害を被っている人たちが放射
能みたいに浴びてるのは、ものすごく単純化された天候についての隠語とか符牒だったり、たまたまこの時代
にかかっている神学の変な儀礼のうっとおしさだったりするのだ。搦め手で科学の方に戻ろうとしても無理な
のだとすれば、気味が悪いと感じる。

ここでいう「概観」、別に特別な事ではなく、たぶん科学が他の科学を顧みれば必ず自然に出てくるものなのだ。例えば手元に「量子力学と私」があるがこの本のはエッセーや日記に混ざって朝永振一郎という人が実地で行っていた科学的な現実の見取り図、見渡しが書いてある。勿論シュレーディンガーという人の特異点についても触れられている。ただ科学的記述が「感覚」や主観と結びついていないように、概観したからといってそれが例えばノーベル賞に値するような発見に結びつく訳でも何でもない。今までの発見を180度覆すような見解が出てくる可能性があり、それが科学的直感という素材にどう落ちているか、ひいては人類が在るという事にどう波及するかが「解らない」のがつまるところ科学の「解らなさ」なんだろうと思う。けれど最も単純な概観であれば、子供が科学館に居るときだってあるだろうし、なにしろ日常の中にだって充分にある(充分にあるべき、というのがフッサールとかの立場じゃないのだろうか)。そしてこの概観を極端に遅滞させたり、変に迷信的に取り扱った時点で科学知は形骸化する(科学的主観が信仰告白にまみれすぎている場合、それは科学でないし、繰り返し信仰告白にたちもどる場合、科学を構成しているフェーズがそこにないことをいぶかしむ権利はどんな単純な個体にもある、と思う)。