(メモ)

「現代量子物理学では、再び観測による現象に対する干渉が強調されており、また、現代心理学も、普遍的な(客観的)意識の中での過程を理解するための生まの材料(とくに夢や幻想の中に無意識のうちに発するもの)として、象徴的なイメージを活用するようになっている。従って、現代人にとって、物理学と心理学とは定量的なものと定性的なものとのあいだの昔日の対比を、再び反映するものになっている」(「元型的観念がケプラーの科学理論に与えた影響」)
こういう背景があり、心的構造と脳過程の観察にどんな技術が絡むのか考えた時、いい加減な事になったら科学を毛嫌いするか一切信用出来なくなるだろうなと思う。

「リビエール」を中断したまま、気になっていた事をまとめつつ少しづつ書き出してみる(原稿用紙に書く、という作業を基本的にはしないので、別にここに小説の断片を載せることは間違いではないのだろうが、何となく書いたものにまとまりが無くなるのは良くないと感じる)。現実の酷さが身もふたもないものなんて避けさせる、というような寓話出来。
少し前にストーカーがらみで、何か理系の大学の方がやっぱり変な目に遭っており、それを共時性に関連付けて分析してるブログを見たのだが、電磁場解析の脳への適用、全く妄想ではないなという気がする。これを例えば「電波系」の問題みたいに捉えるのは実際に起きてる事に即していない。大体電波系について言及したがるような人たちが色々な意味で一番ろくでもないのだし。出先でそういうろくでもない人と実際に絡んだ方のお話を伺い、今更ながらあからさまにサブカル妙ですね、という気になる。人間のネガティヴィティのうち何が護られてるのかを考えると、やっぱり半端なく業が深い感じなのだ。

これは別段ご本人が読んでも怒らないはずだが(全部伝えているので)、誰かしら介入しないと今月をもって本当に死んでしまうかも知れなかった方からとりあえず死なないですんだし何もかも好転してる、という話を伺うので、その経緯を表に出しましょうね、という話をする。それが出来ればその事だけでも、迷惑掛けてきた団体のくだらなさを人に伝えられるし、普通の人の内心その団体を軽蔑しきっている感覚に訴える事が出来るはずだと思う。

それと同時に、私はクオリア理論の批判を創価学会批判としてする事にする。感覚的な好き嫌いの問題以上に、本来科学でも何でもないものが宗教の後ろ楯を得てまともな感覚を圧迫すると、それこそちゃんとした科学知識の像みたいなものが見えなくなってしまうからだ。