感覚そのものについて

 出先で、マイブリッジの連続写真がきれいに並んだ二枚の葉書と、
そこに書かれた、機械のような達筆を拝見し、ちょっと心打たれる。
すごいなぁ。やっぱり映画の起源は相当に外傷性も高い、あの連続
写真なのだと思う。
 

これくらい、1年程度で撮れるようになりたい、と思いつつ、実感もなくいろんなことを言いまくる。



少し考えを整理してみる。私は、「日本文学は何故意識を取り扱わないか」を不思議に思っており、それについての思考に一区切り着けたかったので文献を集めていた。意識についての考えに一区切りつけるための科学的手続きのうち、認識論的切断はどうにか理解出来そうだったが、量子力学や数字は読みとる事さえできなかった。自然、文体について書くことになった。しかも趣味的に意識を扱った文体(シュルレアリスムと、意識の流れ)を考えることになった。その時に、天皇制と二重相克みたいな事を意識し出して、中々ハードな事になったのだ。
とはいえ、私は世の中がおかしくならない限り、自分の卒業論文を一年に一回リライトするくらい、別に出来ない事ではないと思っていた(意識や感覚をより根源的に扱っていた帝政下のオーストリアの事や、積み残しの科学的見解についても、自立したら隙間を見つけてどうにかしたい)。けれど確実に世の中は新興宗教と他人の抑圧の方向へ誤作動し、「おかしく」なったのだ。そこでは迷ったままの科学知が自明性を侵犯し、そこへ訳知り顔で「どうでもいいアートの人」が続く。どうでもいいアートの人は最初からすべき事なんてないので、専らパクり(それも元ネタは一般家庭の覗きで入手)でものを書き、オカルトにはまり生半可な状態で「後続」を抑圧する。何なのお前、と思う。