ひぇ

宮台真司がブログを更新しているので読んでしまうが、これが先一昨日に知人と電話で話してた内容とあまりにも被るので気持ちが本当に悪くなる。あと、「宮台キモい」と書いた後の妙な庇いあいムードとかも気味悪い。読みながら、この人は本当に「内面的な女性が自分と付き合う事によって救済される」という物語(蓮實重彦的な物語なんかよりよっぽど単細胞で意味不明だ)がないとまともに人の目も見られないようなタイプなんだろうなぁと思う。何もかもに言及する必要はないでしょ、というか、「ブルドン」じゃなくて「ブルトン」だと思うのだが。
当たり前だが、内面的な人というか私は本が好きなので、社会化されている時間の他に家で安心して本が読めていればそこそこ救われる。それなのに、この手の妙な求心的な男(自己中とかナルシストとか言う癖に自己演出がいい加減でせこいのはどうして)って何故か教育的手段みたいなのを振りかざしてくるのねと思う。大体相変わらず盗聴パクりだし(これは客観的に立証出来るので確認してみよう)。それから出先である区域の行政が完全に創価学会に取りつかれてる話を聞き、これもものすごく気持ちが悪くなる。何考えてるのだろうか。そういうネットワーク内部で自己決定する事と、例えば母性本能(それは書く程無いのだが)を発揮する事は一致しない。新興宗教内部の女性と言うのは原則、教祖のものだからだ(だから「個別の子への愛」を発揮するのは結構難しいのではないかと推測する。カルトじゃない方のキリスト教はそのあたり上手く出来てると思うけど)。
ベンヤミンのなまえが出てくると正気を保てない私なのだが、この人のベンヤミンの読み方ほどご都合主義で意味不明なものを他に知らない。ベンヤミンが可哀想になってくる。
集合的無意識は、世界史が脳と交感神経の構造のうちに沈殿して現れてくるものであるゆえに、それは、われわれの一時的な意識的世界像に対置されるような無時間的な、いわば永遠の世界像なのである」(ユング「現代の魂の問題」)

上記はベンヤミンの引用によるユングなのだが、この「集合無意識」を「世界」に置き換えて考えてみると色々な事がはっきりする。というか「世界の訪れを重視する」とかいう思想の装置はこれ一つで説明出来るのだが、私が聞きたいのは
「それで何が解るのよ」という事なのだ。