(前衛的というのは、あんまり問題にしにくかった宗教との齟齬を一気に意識化してしまったから、結果的に言い方はどうであれそうなってしまった、という事で、教科書的な前衛概念とは関係ないように思える。そもそも前衛の何が前衛だったか、という要約は無意味で、もしそれがあるとしたらリアルタイムで起きている事との関わりかたを見るより他、ないだろうという気がする)

齟齬の意識化と体調とか精神の不調が、単に思い込みでないとして、じゃあ短い期間でどう乗り越えるのか、という事をしっかり考えていけたほうが楽しいだろう、という気がする。出先である方の映画論を指して「ドゥルーズの映画論を先取りしている」という文章を読みながら、文庫になった「批評と臨床」読まないと、と思う。そこで文学が「ひとつの健康の企てである」と規定されているのが何となくいい話のように思えて、どちらにせよ精神論と身体論(脳科学も入る)の間に記述の齟齬を作るという妙なドゥルーズ主義(それをメディアの中で野放しにしたのは何なのか)を先に映像的に解釈しなおす、という試みが可能だとすれば、それはそんなに無駄ではない気がした。 ♪
ある人が元気に画面に写るとき、漸くある種の教祖の健在を演出する宗教の信者だけが異様に元気に生きてる訳じゃない、と気付かされるような体制は気味が悪い。