ここで問題にしている人たち、全員もろに創価学会つながりで、あらためてうわー気持ち悪、という気になる。Web上にあった犯罪のリストも読んで、こんなの絶対何が何だか訳の分からない宗教だから、と思う。普通に生活していて、覗き癖のある奴とか整形アディクトとか過度の依存性患者とかに会わないが、この教団のそういう人間の多いこと。気持ち悪すぎて鳥肌が立つ感じ。

糸井重里的なものの、自分にとってのイヤさをもう少し書いておく。この人のブログに食べ物とかアートの話が載ってると、全部この人の幼児性のフィルタがかかって、ものすごく質が低く見えるのと、これは人に確認したのだけれども「〜の気持ち」という言葉が、もろに創価、という感じなのだ(「メレンゲの気持ち」という番組があるらしく、私は見たことがないのだが創価芸能人ばかりらしい)。何が「気持ち」だよ、と思う。

私が不勉強なせいで、国粋主義とか日本主義に理論的な身体を与える時に何が問題になるか分からないのだが(天皇制を意識化すると自我構造が混乱するという話を書いたし、民俗知みたいなものにもやっぱり不可解なものの刻印がある)、そのあたりの話を現状に即してメディア論として組成しなおすのはそれほど難しい話にならないと思う。が、それを「聞いて良かった」と思わせる話にするためにはどうしたらよいのか。

    ♪
私は好き嫌いがはっきりしているので、特に糸井だけはいくら何をどれだけ言われても嫌いなものは嫌い、と書くより
ほかないのだが、微妙にブログの間で対話が成立してしまっていることも含めて大変にキモいのだった。メディアの
中に「正しさ」を言う声が満ちていて息苦しい、というのはウソであり、だから(仮に個人情報がテレビでやり取り
されていようと)テレビは見過ごすことが出来るのだが、こういう人はテレビ以外の情報摂取方法に変な色目を使わない
でほしい、と思う。その中で自己完結しておいてほしいというか。
 ナンシー関が、芸能人というのはフィルタが作用しているかそうでないかで価値があるかないか決まるんだ、みたい
なことを書いていて、要はジャニーズだったらジャニーズを重要だと思うマインドセットがあるかないかで芸能人の価値
が決まるということなのだと思うが、いまどき「コピーライター」が大事な人なんてまるで居ないのだし、それなのに
出ずっぱりになれるとしたら相当きな臭いよなぁという気がする。