「言葉を撮る」を衝動買い

2008年に鯨に対する短文とデリダに対する何か寝言みたいな
ものを同時に書いている。洗脳とかいろんな迷惑行為さえなければ
もっとてきぱきやるのになと思うと、自分でも緩慢さにイライラする
のだが、創価学会が金の出所になっている人たちのネットワークはどう
腰を折ればいいのかもわからなくなるほどやり方が不吉で単なる名誉欲
に塗れている(それで、それは全部いい年したおっさんの老後の遊興費
に当てられている。私には数名単に慰謝料だけ払って欲しいと思う
人間がいるし、私信を勝手に覗いてまでパクリとか私生活に介入している
やつについては、まともに刑事告訴したい。というか、これで警察
が動かなかったら、そのうちどんな方法でか警察不祥事として追究したい
と思う。何件かについては完璧に刑事告訴しか考えられない。
 日中仕事しながら、人の家は覗くは暴力団はつかうは、体調不良に
なりかねないような脅かしを平気でしてくるわ、それでいて戯言にも
満たないようなくだらない事しか言ってないわという人たちに延々
付きまとわれてるってどんななのと思う。リアクションに困るとしか
いいようがないし、何でこんなキモい奴を担いだのとしか言えない
くらい非生産的でいんちき臭い疑似科学を振りまいてる人間が偉そうに
前面に出てるのはおかしいとしか思えない。何よりおかしいのは広告
代理店やらテレビが一手にお金のかかる表出を担っているので、薄々
オリジナリティなんてまるでない大馬鹿だと気づかれている人間が
ずーっとしたり顔でメディアに出続けられることだ。自浄作用がまったく
働かないのでは、と思う)。


 「人為時事性」はデリダの用語だが、ドキュメンタリーをテレビにしろ
映画にしろ流すときにもうちょっとこの言葉を援用してまともな放送コードを
作ってもいいのではないかなぁなどと思う。(要は撮られてるものと撮り方に
どれだけ作為があるか、撮られているものの内実と表現方法がどれくらい合って
いるかのチェックを何のメディアがするかということなのだが)。

 そして、デリダの映画は見たいのと、「言葉を撮る」というタイトルが嬉しくて
映画論を衝動買いする。

                ♪
 内田樹先生、私からパクッていないとき本当につまんないんですよね・・・
と思う。というより、数年前から商業ベースに乗っている出版物が、どれだけ
新興宗教に下駄を履かせられてるのと思う(宗教がらみのネットワークを
使って個人の生活圏域を勝手に荒らして、適当な内輪ネタでごまかすのが
「出版物」の内実なんだとしたら、ipadとか電子書籍なんて出てこなくても
おそらく本は不用品になる)。
 オウム事件前後に、今でも思い出すのだがまともな小説のシリーズとか、
パスカル・キニャ−ルみたいな面白い作家の本がたくさん出たのだが、あれ
みんなどこに行ってしまったのだろう。